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セシル・フィルダーという男

割引あり

今回は、セシル・フィルダーを
取り上げていきます

1963年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に
生まれたフィルダーは
ネバダ大学ラスベガス校を卒業した1982年、
ファーストを守る右の大砲として
MLBドラフト4巡目で
カンザスシティ・ロイヤルズに指名されました。

3年後の1985年、
トロント・ブルージェイズ移籍をキッカケに
メジャーデビューを飾ると
主に左投手専用の指名打者や代打要員として
通算220試合に出場、4年間で31本塁打を記録します。

特に1987年シーズンは14本塁打を放つなど
MLB屈指の長距離砲として期待されましたが
同時期に同じポジションには
フレッド・マグリフや、後に福岡でプレーした
ウィリー・アップショーなど
守備位置が競合する多くのライバルがいた事から
なかなか出場機会に恵まれませんでした。

レギュラー獲得が困難なうえ、
年俸は12万5000ドルで頭打ちとなっていた
フィルダーは日本を含めてレギュラーを
確約できる球団を探していたところ、
前年退団した史上最高の助っ人
ランディ・バースの後釜を探していた
阪神タイガースから4番打者として
オファーが届いたのです。

25歳の若さながら
すでに愛妻と5歳の息子、プリンスを
支える大黒柱だったフィルダーは
「とにかく毎日プレーしたかった。その機会が
トロントではなく日本にあった。試合に出られない
イライラを家族にぶつけて迷惑をかけたからね。
年俸105万ドルというのも魅力的だったんだ」と
日本行きを決断、身長190センチ、体重124キロの
助っ人は海を渡って来たのでした。

バースの背番号44を引き継ぎ
キャンプ地に現れた大砲はスイングの豪快さから
「荒熊(あらくま)」いうニックネームが
付けられると、場外アーチを連発、
左中間フェンス後方には高さ7メートルの
フィルダーネットが設置されるほど
2年連続で最下位に沈む村山阪神の救世主と
期待されたのです。

しかしいざオープン戦が始まると
外角のスライダーやフォークに全く対応出来ず、
14打席で10三振と散々な成績に
季節外れの大型扇風機と酷評されましたが
日本投手の変化球の多さとコントロールの良さを
知った助っ人は戦術を変更しました。

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