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【ヘンスリー・ミューレン】日本プロ野球初となるオランダ人助っ人はイジメにも耐えながら恐怖の八番打者としてヤクルト日本一に貢献して故郷キュラソー島の英雄になり指導者としても世界一に輝いた心優しき大砲

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ヘンスリー・ミューレンを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=i_9PaY6xYVo&t=84s

1967年、カリブ海に浮かぶ種子島ほどの小さな島、
オランダ自治領キュラソー島で生まれたミューレンは
サッカーが盛んな地域だった事もあり
16歳まで野球とサッカーともにプレーを
して育ちました。

トリンテイツ高等学校を卒業した1985年、
アマチュアFAで
ニューヨーク・ヤンキースから指名を受け
入団すると
1989年8月23日のボストン・レッドソックス戦に
8番サードでメジャーデビューを果たし、3打数1安打の
成績を残します。

野球がそれほど盛んではなかった
人口16万人程度が暮らす故郷キュラソーは
この快挙にお祭り騒ぎとなり、
歴史に残る記念日として首相や政府関係者から
山のように祝電が届くと
身長190センチ、体重94キロのメジャーリーガーは
1991年も91試合に出場しました。

しかし名門ヤンキースのぶ厚い選手層の中で
コンスタントに出場する機会は得られず
5シーズンで打率2割2分1厘、12本塁打と
くすぶっていた大砲に千葉ロッテの関係者が
目をつけて交渉を開始、年俸4900万円で
契約がまとまると
26歳の若さで海を渡ってきたのです。

1994年、日本初のオランダ人助っ人として
千葉ロッテマリーンズに入団した
右打ちの大型野手は、本名「ミューレンス」ではなく
「ミューレン」を登録名とし
英語、スペイン語、オランダ語、ポルトガル語を話す
マルチリンガルな才能を武器に日本語もすぐに
習得しました。

練習中は流れている音楽に合わせて
ブレイクダンスを踊り、大声で日本人選手と
挨拶する陽気な助っ人は、家族が来日するまで
同期入団の助っ人マイク・ハートリーとともに
近所のスーパーへ出かけては食材を買い込み
自炊生活を続ける庶民的な一面を見せます。

いざ開幕すると主にレフトを任され23本塁打、
69打点をマーク、打率こそ2割4分8厘と安定感を
欠いていましたが
107安打中23本がホームランというパワーは
魅力的だとして契約更新かと思われましたが
野球以外にミューレンを悩ませたものがありました。

それは、MLBドラフト2巡目で入団し
10年以上、主力打者として活躍した
バリバリのメジャーリーガー、
メル・ホール。
年俸2億2000万円でロッテに前年から
在籍していたメル・ホールはミューレンと
ヤンキース時代からのチームメイトでしたが
見かねた八木沢監督から注意されるほど
7歳年下の後輩助っ人をイジめていたのです。

マイナーを行ったり来たりするレベルだった
ミューレンを格下扱いして嘲笑い、
ロッカーを荒らしたり、カンチョー攻撃を仕掛けたり。
口答えしようものなら「ドント・トーク」
しゃべるなと頭を引っぱたいて
ジュースを買いに行かせるなど
やりたい放題、命令されるたびに小銭を握り締め、
涙目で自動販売機に走るミューレンを
ロッテナインは目撃していました。

愛甲氏も奴は史上最低の野球選手と酷評し、
小宮山氏も「あいつだけは許せない、
はらわたが煮えくり返った」と
怒りをぶちまけるほど人間的に問題があった
メル・ホールは
ヤンキース時代も若手の有望株だった
バーニー・ウィリアムズを
執拗にいじめ、ジーン・マイケルGMから
イジメをやめなければ解雇すると
通告されたほどの常習犯だったのです。

引退後、バスケットボールのコーチをしていた
1998年に教え子の少女へわいせつ行為を働いたとして
逮捕され、禁錮45年を言い渡されたほどの
凶悪犯と同僚となった1年は、不運としか言いようが
ありませんでしたが、イジメ被害者のミューレンは
「2度と思い出したくないくらい嫌な奴だったが
その時の苦い思いを胸に、いつか這い上がって
やると誓って、今の地位にたどり着いたんだよ」と
後に語りました。

イジメ問題に加えて、新監督ボビー・バレンタインが
大物大リーガー、フリオ・フランコを
日本に連れていきたい意向も相まって
1年限りで自由契約となった助っ人でしたが
読売ジャイアンツに移籍した広沢にハウエルといった
2人の長距離砲を失い、長打力を欲していた
ヤクルトスワローズがすぐに声をかけます。

「なぜ2年目に伸びる可能性のある選手を
ロッテが切ったのか理解に苦しむ」と
球界関係者が首をかしげた未完の大器を
手に入れた野村監督は
同時に阪神からオマリーの獲得にも成功し
「一塁オマリーが背番号3で
三塁ミューレンが背番号9。
2人合わせてサンキュー・セットや!
抜けた2人の穴は埋まらないとか
戦力ダウンは間違いないとか言う
解説者がいるが、俺が目指している野球とは
逆行する2人だったから惜しい選手を失ったと
全く思っていないんや」と強気に笑い飛ばしました。

すると開幕2戦目、3打席3三振、1エラーと
いいところがなかったミューレンは
1点ビハインドの1アウト満塁で打席が回ってくると
汚名返上のタイムリーツーベースを放ち
シーズン初勝利に貢献します。

まだまだ荒削りで、ホームランか三振かの
豪快なバッティングから、いつか当たる
バンバン宝くじという
ニックネームがつけられた助っ人は
1995年8月17日の阪神戦で、その名の通り、
湯舟投手からレフトスタンドへ130メートルの
特大満塁弾を叩き込み「宝くじが当たったで」と
指揮官を大喜びさせました。

さらに8月26日の中日戦では
初回に左へ先制3ラン、
5回には右へ技ありのソロを叩き込むと
6回にはセンターへタイムリーを
放つなど、全方向へ器用に打ち分けての
6打点と荒稼ぎ、
3.5安打に1本の割合でホームランが出る
大砲ぶりで一躍、キング争いの大穴に浮上したのです。

野村監督は誇り高きオマリーを不動の4番(よばん)打者
として起用し、プライドをうまく利用しながら
助っ人のまとめ役を任せたほか、
若いミューレンには自由に打たせようと
打順を8番に固定、リーダーとなったオマリーの
サポートを受けながら、長打力を発揮した
背番号9は恐怖の8番打者として
同僚外国人に恵まれなかったロッテ時代が嘘のように
気持ちよくプレーするようになると、
6番秦、7番池山と
ダブルクリーンアップを形成した
チームは好調を維持したまま
リーグ優勝ならびにイチロー擁するオリックスを
下して日本一にも輝き、
ミューレン自身は130試合にフル出場して
29本塁打、80打点の活躍を見せ、
日本シリーズ第3戦では9回にオリックスの守護神、
平井から同点ホームランをかっ飛ばしました。

アメリカで一緒にプレーした事がある
デストラーデから日本では決めポーズを作った方がいいと
助言を受けたからと、そのまま真似した弓を引く
ポーズを披露しながら、頂点を極めたミューレンは
オマリー、テリー・ブロス、古田らと
輪になって肩を抱き合い、神宮のフェンスによじ登って
ファンと一緒に最高の瞬間を分かち合ったのです。

翌1996年は、前年リーグ最多だった134三振を
減らそうと、コンタクトレンズで視力を
矯正して臨むも、なぜか更に増えて
2年連続三振王の140三振を喫しますが
相変わらずの長打力は健在で
25本塁打を放って存在感を見せました。

しかし、打率の低さもそのままだった事から
この年限りで退団を余儀なくされた助っ人は
帰国後の1997年、モントリオール・エクスポズで
MLB復帰を果たすと、その後はダイヤモンドバックスや
独立リーグ、さらに韓国リーグや
メキシカンリーグでもプレーを続けましたが、
2000年のシドニー五輪オランダ代表に選出されたのを
最後に現役を引退したのです。

引退後はサンフランシスコ・ジャイアンツの
3AやWBCオランダ代表のコーチを歴任したのち
2010年からジャイアンツの打撃コーチとして
1軍ベンチ入りすると
ワールド・シリーズを3度も制覇する
世界一のチームを作り上げました。

さらにオランダにおける野球界での功績が
認められ、ベアトリックス女王から
ナイトの称号が与えられた翌2013年には
WBCオランダ代表監督として
チームを初の決勝ラウンド進出に導いたほか、
2017年のシーズン終了後、
名門ヤンキースのジラルディ監督退任に伴って
新監督候補として、その名があがり
最終候補まで残ったのです。

「野村さんには感謝してるよ。メジャーは日本以上に
データを集めるけど、大事なのはその生かし方だって
日本で学んだし、デーゲームが苦手な選手には
朝起きて散歩をしなさい、血の巡りが良くなるからって
日本流のアドバイスもしてるよ。
ロッテで一緒にプレーした小宮山さんにも
多くのことを学ばせてもらったし
イチローには衝撃を受けたね。
偉大な選手を間近で見れたことは一生の宝物だよ」
と名将の教えや日本人とプレーした中で得た知識で
有能な指導者となりました。

会話のほとんどを日本語で出来たという温厚な助っ人を
ヤクルト時代の同僚である高津氏は
「性格は外国人選手の中でもトップクラス」と評し
野村監督も「人間的に最高にナイスガイ」と言うほど
人格者であったミューレンは
「メジャーは外角中心だけど、日本は内角攻めや
シュートが多いから、スイングを変えて対応していった
事で打者としての技術が上がったんだ。
伊勢コーチや野村監督から多くを教わる事が出来て
本当に幸運だったと思ってるよ、私はいつもいい時に
いい場所にいたと信じてるけど、ボスの下で
ノビノビやらせてもらって優勝も味わえた
最高の1年は忘れられないよ。
今でも大歓声と紙吹雪が舞う巨人戦の高揚感を思い出したくて
映像を見返す事もあるくらいさ」と語っています。

母国キュラソーに設立した
ダッチ・アンティル・ベースボールアカデミーの生徒だった
バレンティンが後にヤクルト入りして自身の応援歌を
引き継ぎ、60本塁打のプロ野球シーズン最多記録を樹立、
さらに同郷のアンドリュー・ジョーンズがMLBを代表する選手となって
来日を果たすなど、その礎を築いた恐怖の8番打者は、
名将の元で日本一に輝き、異国の地で学んだ事を生かして
世界ナンバーワン球団の名コーチとなった
小さな島に燦然と輝くキュラソー野球界のパイオニア、
ヘンスリー・ミューレン

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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