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【ラリー・シーツ】日米野球にオリオールズの一員として来日した左打者はイタリアでくすぶっていたところ来日 チーム三冠王の活躍で横浜ファンを熱狂させるも1年で帰国した鯨最後の助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ラリー・シーツを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=XGVL7lytHS0

1959年、アメリカ合衆国バージニア州に生まれた
本名ラリー・ケント・シーツは
東メノナイト大学で
バスケットボールのスタープレーヤーとして活躍、
「ベースボールはあくまでオフシーズンのスポーツ」と
公言していましたが1978年、
MLBドラフト2巡目でボルチモア・オリオールズから
指名されました。

のちに2632試合連続出場の大記録を達成する
フランチャイズ・プレイヤー、
カル・リプケン・ジュニアと
同期入団したシーツは
「プロでやっていく自信がない」と
最初の3年間はプレーせず、
大学で勉強を続けていましたが1983年、
2Aで25本塁打を放ちホームラン王を獲得すると
翌年にはメジャーデビューを飾ったのです。

初出場した9月18日の
ニューヨーク・ヤンキース戦で
初ヒットを記録した左打者は、2日後の
ボストン・レッドソックス戦でも
2打数2安打と才能の片鱗を見せると
最終的に16打数7安打、打率4割3分8厘の
好成績でルーキーイヤーを終えました。

その年のシーズンオフ、日米野球に
オリオールズの一員として来日したシーツは
リプケンに並ぶチーム2位の4本塁打に11打点、
打率4割と
メジャーリーガーの力を見せつけると
翌1985年は
主に指名打者としてレギュラーを獲得、
打率2割6分2厘、17本塁打、50打点の成績を残します。

野球がダメになっても生活に困らないようにと
1987年、保険体育学の学位を取得すると
不安が無くなった事から大爆発、
打率3割1分6厘、31本塁打、94打点で
チームのMVPに輝いたほか
最多奪三振記録を保有するスーパースター、
ノーラン・ライアンから
「最も打ち取りにくい打者のひとり」と
称されました。

しかし、翌年から突如不振に陥り、
デトロイト・タイガースにトレードされた
1990年、横浜大洋ホエールズの
名スカウト牛込氏から
声がかかったもののこれを拒否、
古巣オリオールズ復帰を目指していましたが
契約のもつれから退団すると
イタリアのセミプロリーグに移籍したのです。

MLBで通算94本塁打放った大物がイタリアで
くすぶっている事を知った牛込氏は1992年、
年俸1億円で再び交渉を開始すると
高い打撃力を有した身長190センチ、
体重106キロの
助っ人は海を渡って来たのでした。

前年から入団していたロバート・レイノルズと共に
攻撃の要として期待された外野手は
開幕からコンスタントに安打を積み重ねると
リーグトップの殊勲打(しゅくんだ)33本を放つなど
勝負強さを発揮したほか、
この年、最多勝利のタイトルを獲得した斎藤雅樹から
打率5割、最多奪三振に輝いた
仲田幸司(なかだこうじ)から
打率4割7分、古田とともに
最優秀バッテリー賞を受賞した
岡林洋一から打率4割と、相手チームのエース級を
ことごとく粉砕したのです。

本塁打を狙わず、巧みなバットコントロールで
ランナーを返す打撃が信条の
中距離ヒッターでしたが
同点時にはリーグトップの7本塁打を記録するなど
チャンスにめっぽう強いクラッチヒッターとして
チーム三冠王となる
打率3割8厘、26本塁打、100打点の活躍を見せると
1年目からオールスターゲームに出場したばかりか
打点王とベストナインにも輝きました。

チームが横浜ベイスターズに変わり、新球団として
生まれ変わる1993年もチームの主軸として当然
契約更新だと思われた矢先、
球団はホームランが少なく、守備がイマイチと言う理由から
1年限りでの退団を発表したのです。

実際には年俸で折り合わなかった事に加えて
新チームとしての船出に大洋カラーを
消したかったことからパ・リーグ球団へトレードを
画策したもののシーツ側に拒否されたのが
真相と報じられました。

帰国後はMLB復帰を目指して
シアトル・マリナーズに
入団しましたが、
10月1日のミネソタ・ツインズ戦を
最後に現役を引退、
わずか11試合の出場でユニフォームを
脱いだ助っ人は1993年、日本で発売された
ファミスタシリーズで初めて打点のパラメータが
導入されると、唯一3ケタに達した
チャンスに強い選手として登場したのです。

たった1年限りのNPBでしたが
打点王のタイトルを取り
嵐のように去っていった
大洋ホエールズ最後の助っ人が
数十年の時を経た2021年9月16日、
再び記憶に蘇ってくる出来事が起こりました。

日本から海を渡った若き二刀流、
エンゼルスの大谷翔平が
3番指名打者として出場していたホワイトソックス戦、
6点リードの9回の打席で右ふくらはぎに
デッドボールを受けると
故意に当てた危険球として退場者が
出るほどの不穏な空気の中、
何事もなかったように一塁へ歩いた大谷は
ベースに到着すると全く気にする様子もなく、
敵軍の
一塁手と満面笑みで言葉を交わしましたが
この時、ファーストを守っていた
ギャビン・シーツこそ
ラリー・シーツの息子だったのです。

父と同じくMLBドラフト2位で2017年に
シカゴ・ホワイトソックスから
指名されてプロ入りした
息子ギャビン・シーツは、
2021年にメジャーデビューを
飾ると54試合に出場、
日本に縁のある2人の名シーンが誕生しました。

引退から3年後に生まれた息子を
大リーガーに育て上げた
背番号26は閉所恐怖症でエレベーターに乗れず
ホテルでは常に階段で使っていた事から
「どこでもトレーニングを欠かさない
真面目な選手」と
メディアに注目されると
同僚だったレイノルズが履いていた
ズボンの丈がくるぶしまで来る長い足を強調する
ユニフォームに憧れ、
「自分のズボンも長くできないか」と
通訳に頼み込んだそうです。

シーツ退団後、新しくなった横浜ベイスターズに
入団したグレン・ブラッグスと
ロバート・ローズの存在が
あまりに大きく、わずか1年で素晴らしい成績を残した
助っ人の存在は忘れがちではありますが
ノーラン・ライアンも恐れた驚異の
クラッチヒッターは
勝負強い打撃で横浜ファンの記憶に
しっかりと刻み込まれた
くじら最後の助っ人、ラリー・シーツ

いかがでしたでしょうか?
これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

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