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城島健司という男

割引あり

今回は、城島健司(じょうじま けんじ)さんを取り上げていきます。

長崎県佐世保市(ながさきけんさせぼし)で生まれた城島は、4歳の時、
その後の野球人生において
不思議な縁でつながり続ける
王貞治(おう さだはる)氏の引退試合に影響を受け、
プロ野球選手になる夢を持ちました。

選手の中で1人だけ反対方向を向いていて
特別なポジションだから面白いと、
少年野球チームの頃から捕手(ほしゅ)を務めると、
中学3年時、九州で行われた野球教室のゲストに
現れたのは、なんと憧れの王貞治(おう さだはる)氏。
直接プレーを見てもらい、将来は
巨人に入りなさい。と褒められた事から
巨人入団という強い希望を持つようになります。

別府大学附属高校(べっぷだいがくふぞくこうこう)に進学すると、
自分は捕手(ほしゅ)をやるために生まれてきた宿命、
今までにいなかったくらいの
打って守って走れる捕手を目指そうと決意を固め、
強肩強打の捕手として1年から4番で出場、
高校通算70本塁打を記録しました。

巨人入りを夢見ていた城島は、
当時のドラフトルールで
大学生以上でなければ、希望球団へ逆指名が
出来なかった事から、
推薦入学の誘いを受けた駒澤大学へ進み、
東都大学(とうとだいがく)リーグで力をつけてから
巨人入りという青写真(あおじゃしん)を描いていました。

そのため高校卒業後はプロ入りを拒否して進学を
表明していましたが、ダイエーホークス専務、
球界の寝業師(ねわざし)こと根本(ねもと)氏が1994年度のドラフト会議で、
強行で城島を1位指名した事から運命の歯車が動き出します。

高校時代、3段の腕前である書道の時間に
好きな言葉を書くよう先生に
言われた城島は、迷わず「王」の一文字を書いたほど
尊敬してやまない王貞治氏から自分も来期は
ホークスの監督をやるから一緒にやろうと声をかけられた事で
方向転換、プロ入りを決断しました。

これをきっかけに、アマ球界(きゅうかい)との摩擦を避ける名目で
プロ入り拒否を表明した選手をドラフト会議で
強行指名できないルールが制定されるほどでした。

プロ入りした当初はワンバウンドを捕球(ほきゅう)する事ができず
達川(たつかわ)コーチを始め、野村克也(のむら かつや)氏や森祇晶(もり まさあき)氏ら、
球界に名を残した名捕手(めいほしゅ)から、キャッチャーに向いていない
という声が上がり、非凡な打撃を生かすために
内野手(ないやしゅ)にコンバートしようという案もあり実際に一塁(いちるい)の守備も
経験します。

しかし、のちに師弟関係となる工藤投手(くどうとうしゅ)いわく、
どれだけ厳しく叱っても強靭な精神力で
食らいついてきた。
彼は僕が育てたんじゃなくて自分で育ったんだ、
と語るほど、
何でも吸収しようと貪欲に教えを請い、
球界を代表するナンバーワン捕手となっていきました。

1995年にプロ初安打(はつあんだ)、初打点を挙げると、
1996年にはウエスタン・リーグの本塁打(ほんるいだ)新記録を達成。
9月3日に一軍昇格後はスタメンで起用され、
オフはハワイ・ウィンターリーグにも派遣されます。

3年目となる1997年、開幕から一軍に定着すると
工藤公康(くどうきみやす)、武田一浩(たけだかずひろ)の
両エースに、若菜(わかな)コーチからも徹底した指導を受けて飛躍、
特に工藤は1年間、城島が出すサインに首は振らないと宣言するほどの
英才教育で、オールスターゲームに最年少21歳45日で選出されるなど
最終的に打率3割を記録して不動の正捕手(せいほしゅ)に成長します。

1999年には全試合出場、リーグ3位の打率3割6厘を記録するなど
球団初のリーグ優勝および日本シリーズ優勝に大きく貢献し、
工藤とともに最優秀バッテリー賞も受賞する活躍を見せました。

翌年もリーグ2連覇に貢献すると
2001年、リーグ9位の31本塁打(ほんるいだ)、
2002年、本塁打25本に、打率リーグ10位の2割9分3厘と着実に
超一流への階段を登っていった、2003年。

3割・30本塁打・100打点という
さらに高い目標にかかげて、
子どもたちに夢を与えるスーパーキャッチャーになる!との
宣言通り、打率3割3分、34本塁打、119打点を記録。
チームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献するとともに
MVPに選出されるまでになりました。

進出した日本シリーズでも4本塁打を放ち、
チームの日本一の原動力となった翌2004年、
アテネオリンピック日本代表では4番に座り、
銅メダルを獲得、シーズンでも打率3割3分8厘の好成績を残します。

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