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【ジョージ・アリアス】メキシカンリーグでくすぶっていた大砲に目を付けた伝説の打撃コーチが日本に連れてくるとチームの主軸となりホームランを連発 移籍して出会った闘将のもとで満開に咲き誇った控えめな助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はジョージ・アリアスを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=INqsKbcDFwA&t=10s

1972年、アメリカ合衆国アリゾナ州で生まれた
アリアスはアリゾナ大学を卒業した1993年、
MLBドラフト7巡目でカリフォルニア・エンゼルスから
指名を受けて入団すると、
1996年4月2日にメジャーデビューを果たしますが
84試合で打率2割3分8厘、6本塁打、28打点と
思うような成績を残せず
サンディエゴ・パドレスに移籍しました。

パドレスでもレギュラーへの壁は厚く、
3シーズンに渡りマイナーとメジャーを
行き来する生活を送ったのち、メキシカンリーグに
戦いの場を移していたところ、
若き日の落合や小久保を指導するなど
伝説の打撃コーチと評されていた
高畠氏(たかばたけし)の
目に止まったのです。

オリックス、仰木監督の参謀として
メキシコを巡回していた高畠氏は
すぐに球団へ報告、年棒5500万円で
スカウトすると日本に活路を見出した
身長180センチ、体重93キロの助っ人は
海を渡ってきたのでした。

登録名に愛称を用いることを好んだ
仰木監督は開幕直前に登録名を
ジョージに変更しましたが
不調が続いたためにアリアスに戻すと
最終的に打率2割5分ながら26本塁打を記録して
チームの勝利に貢献、2年目の2001年はさらに
日本の野球に順応して打率を2割6分2厘に上げ、
38本塁打、97打点の好成績を残します。

チームの最多打点を叩き出す活躍で
打線を牽引してきた
アリアスは、3年目の契約更新にあたって
年俸の大幅アップを要求しましたが
2年連続で出塁率が3割2分台だった事に加えて
チャンスに弱い長距離砲と、真逆の評価を
していた球団は現状維持を主張、
交渉決裂により11月30日、退団となりました。

すると来シーズンから阪神タイガースで
指揮を執る事が決まっていた星野監督は
アリアス獲得を熱望して獲得に乗り出すと
退団からわずか1か月後の
2001年12月25日、年俸2億5000万円プラス
出来高払い5000万円で阪神入団が決定したのです。

セ・リーグにやってきたアリアスは
移籍1年目となる2002年、
読売ジャイアンツとの開幕戦で
移籍第1号本塁打を放ったのを皮切りに
同時期にFA移籍してきた3番、
片岡とクリーンナップを形成、
1989年のセシル・フィルダー以来となる
30本塁打以上の32本塁打、82打点と
期待通りの活躍で打線の底上げと
最下位脱出に貢献しました。

翌2003年は広島から移籍してきた金本や、
濱中の台頭もあり、6番ファーストに収まると
4月11日の巨人戦で来日100号本塁打を
かっ飛ばしたほか、
5月9日の横浜戦では吉見投手から
濱中、片岡に続いて
レフトスタンドにホームランを叩き込む
平成の3連発を完成させます。

6月以降は5番打者として出場する機会も
増え始めると、優勝争い真っ只中の
9月7日の横浜戦、
第32号満塁本塁打を放って球団史上最多タイの
シーズン80勝に貢献するなど
最終的に1986年のランディ・バース以来となる
100打点超えの
107打点に38本塁打の活躍で
ベストナインに輝いたほか、
18年ぶりのリーグ優勝にも貢献しました。

一塁の守備でも安定したグローブさばきで
ゴールデン・グラブ賞を獲得した助っ人を
長い暗黒時代からチームを救った救世主と
崇め奉った(あがめたてまつった)ファンは
「メシア from USA」と愛情込めて
シャウトしたのです。

優勝祝いにSUZUKIから趣味のバイク、
イントルーダー・クラシック800を
プレゼントされたアリアスは
「ボスは皆に怖がられていると聞いて
覚悟はしてたけど、普段は柔らかい人だよ。
ただ試合になるとチャレンジ精神が旺盛だったね。
監督に言われた
「Never Never Surrender」
(ネバーネバーサレンダー)
絶対に諦めるなの言葉は今でも心に残っているよ。
片岡さん、金本さんといい選手が入ってきて、
強くなると感じていたし
ファンの熱心な応援も力になったなあ。
六甲おろしや応援歌の大合唱は今でも耳に
残っているんだ」と懐かしみました。

しかし年俸も3億円に到達した2004年は
新たに就任した岡田監督のもとで
6番打者として序盤こそ打率3割超えの
好調なスタートを切りましたが
6月すぎから腰痛が原因で不調に陥り、
ベンチに下げられる場面も見られるように
なります。

それでもシーズンを通して自身最高の打率2割7分2厘に
25本塁打、84打点の成績は残した助っ人でしたが
岡田監督から勝負弱さと好不調の波の大きさを指摘
されると、同年、45本塁打、103打点の活躍ながら
横浜退団が決定的だったタイロン・ウッズの獲得に
首脳陣が舵を切った事から、
この年限りでの退団を余儀なくされました。

救世主の退団にファンは残留を求めて
署名活動を行うなど
その人気は相変わらず高いものでしたが、
球団の方針が覆る事はなく帰国の途につくと
ワシントン・ナショナルズのマイナーチームや
メキシカンリーグでプレーを続けていた翌年、
思いもよらない話が舞い込んできたのです。

2006年シーズン、2年ぶりに復帰した原監督のもとで
開幕ダッシュを決めた読売ジャイアンツでしたが
高橋、小久保、阿部と主軸が続々とケガで
戦線を離脱していく展開に
最大14もあった貯金は交流戦が明けた頃には
1にまで減少、
なんとかチーム立て直しの救世主を補強したい原巨人は
東京ドームの相性の良さを高く評価していた
アリアスに白羽の矢を立てました。

親日家で日本の生活が大好きだった助っ人は
年俸3000万円のオファーを快諾すると
7月5日の中日ドラゴンズ戦に6番レフトで日本復帰、
3球団目のシーズンをスタートさせたのです。

しかし人気球団の重圧からか
本来の実力を発揮することができず、17試合の出場で
二軍降格となった助っ人は
「チームを救済できずに申し訳ない。
阪神の時は野球を楽しむものだと
感じていたけど、巨人の選手は重圧に負け
野球を楽しんでいないと感じたんだ」と
不完全燃焼のまま引退を決めて機上の人となりました。

引退後は住宅清掃会社を経営しながら
「子どもたちが力を最大限だせるような
指導をしたい」と、
地元アリゾナ州ツーソン市で
センターフィールドベースボールアカデミーを開校、
野球の技術だけなく、人間形成にも力を
入れているそうです。

「苦しい時期は必ずあるけど、落胆するのではなく
過程を信じて前進することや常に努力することなど
日本人から学んだことを教えているよ」と語る
アカデミーの卒業生には、全米ドラフト34巡目で
パドレスから投手として指名を受けた息子の
ジョージ・アリアス・ジュニアもいました。

2021年、巨人米国OBスカウト中地区担当に
就任したアリアスは
「もう少し日本語を勉強すればよかったと
後悔しているんだ、日本人は律義で親切。
妻が財布を3回なくしたけど3回とも
戻ってきた時には感動したね。
息子も将来、日本で野球がしたいと言っているし
私も日本でプレーできたことは本当に
財産だと思っているんだ。
人、文化、野球、ファン、日本の全てが
大好きだから、またいつか戻りたいね」と
日本びいきの助っ人は指導者として
復帰する夢を持っています。

チームメイトだった矢野氏は
「元捕手らしく投手の心理も把握出来るし
野球をよく理解しているから賢い監督に
なるだろうね」とその手腕に期待を寄せました。

外国人打者特有の威圧感は無く
6番あたりで発揮する長打力で相手投手の前に
立ちはだかると、ダイナマイト打線の一角を
担ってパワフルな打撃を披露した大砲は、
袖からアンダーシャツを少し出し
端正な顔立ちで女性人気が高いわりには
真面目なクリスチャンとして大人しい
地味キャラでしたが
オマリーコーチの指導に熱心に耳を傾け
「日本の全てを抵抗しないで受け入れて勉強する。
そういう心構えでいたよ」といつも自信なさげに
打席に立つと豪快にホームランをかっ飛ばし
ペンダントにキスしたのです。

同じ関西圏にいた縁で仲が良かった
タフィ・ローズと同じ神戸のマンションに住み、
たびたび食事や試合に招待していた
ホームランアーティストは、
頼りにならなそうで実は頼りになる
不思議な魅力を有し、甘いマスクと長打力で
虎ファンに18年ぶりの優勝を持ち帰った救世主、
ジョージ・アリアス。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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