見出し画像

【ホセ・カスティーヨ】ベネズエラ生まれの大リーガーは斧を意味するアチャの愛称で親しまれると強肩を生かした守備でレギュラーとして活躍 大好きな野球をプレーするために4大陸を渡り歩いたジャーニーマン

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ホセ・カスティーヨを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=oHyqgjqFlRs

1981年、ベネズエラはミランダ州カラカスに生まれた
本名ホセ・ロンドン・カスティーヨは
ラスメルセデス高校在学中の1997年、
アマチュアFAでピッツバーグ・パイレーツと契約すると
16歳にしてベネズエラのサマーリーグで頭角を現し、
18歳の時に渡米しました。

2000年、ルーキーリーグで125試合に出場して
打率2割9分9厘、16本塁打、72打点の成績を残したほか
強肩を生かしたショートの守備では
392補殺を記録すると、シーズンオフに母国の
ウインターリーグにも参加するほど
野球漬けの毎日を送っていたのです。

斧を振り下ろすようなバッティングフォームから
スペイン語で斧を意味するアチャのニックネームで
親しまれた若者は2003年、2Aに昇格すると
打率2割8分7厘をマークしたほか、新たに挑戦した
セカンドの守備でも強肩を生かして
リーグトップの守備力と称されました。

翌年、3Aを飛び越えてメジャーデビューを
果たした23才の右打者は
4月7日のフィリーズ戦に8番セカンドで
先発出場すると、初打席で初ヒットを放ったほか
高い守備力も評価されてレギュラーに定着、
8月は打率3割4分7厘をマークして
月間MVP候補に選ばれるなど129試合に出場したのです。

2005年も101試合に出場、翌2006年は自身初のフル出場も
果たしましたが、好不調の波が激しく安定感を欠いた事から
2007年、ジム・トレーシー監督は前年の首位打者
フレディ・サンチェスを二塁にコンバートしたため
その控えに回るようになりました。

スタメンの座を失ったカスティーヨは
オフにフロリダ・マーリンズを経て
サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍すると
サードのレギュラーを獲得、129試合に出場しましたが
その後は複数球団を転々とする日々を送ります。

2009年から戦いの場を台湾に移したカスティーヨは
郭源治も在籍していた統一(とういつ)ライオンズの
サードとして73試合に出場、
打率3割1分4厘、13本塁打、65打点をあげると
MLBで5試合連続本塁打を放った力強い打撃や
南米選手特有の柔らかいグラブさばきで
内野ならどこでも守れる器用さに目をつけた
横浜ベイスターズからオファーが届きました。

球団の佐藤常務が「守備が抜群で
下位打線で橋本と並べば爆発力がある」と期待を口にし
年俸3000万円で契約すると
台湾でアジアの野球に触れた身長185センチ、
体重95キロの助っ人は海を渡って来たのです。

2010年、尾花監督のもと新生ベイスターズの
打線の要として期待された助っ人は
日本ハムからやってきたターメル・スレッジとともに
その力を発揮し
3月30日のホーム開幕戦で逆転スリーランをレフトスタンドに運ぶと
4月3日のヤクルト戦では本塁打を含む5打数5安打と
好スタートを切りました。

フォアボールを選ばない超積極的な早打ちで
シーズン通して打率2割7分3厘、19本塁打、55打点に
守備の方では二塁手で球界トップの守備イニング500以上と
一定の成績は残したものの、チーム低迷の要因となった
投手陣の補強を優先したい首脳陣の方針で
スティーブン・ランドルフ、クリス・ブーチェックらと共に
自由契約を公示されたのです。

帰国後はウインターリーグに参加して
メジャー復帰の道を模索していた矢先、
結婚指輪をバイク強盗に盗まれるなど
踏んだり蹴ったりの助っ人でしたが
メキシカンリーグのメキシコシティ・レッドデビルズに
入団して野球を続けていると、
シーズン途中の6月22日、腰痛の治療のため韓国に
帰国したキム・テギュンの後釜を探していた
千葉ロッテマリーンズから声がかかりました。

本当は指名打者候補として別の外国人選手に目をつけて
いた千葉ロッテでしたが、交渉が不調に終わった事から
代役として急遽年俸1200万円で再来日する事になった助っ人は、
就労ビザ取得の関係で2軍出場もないまま7月5日、
いきなり4番ファーストで出場したのです。

3回に同点ツーラン、6回にライト前にタイムリーヒットを放つなど
4安打の固め打ちですぐに結果を出したカスティーヨは
8月に満塁ホームランもかっ飛ばし
シーズン最終戦まで4番ファーストとしてプレー、
最終的に打率2割6分9厘、5本塁打、34打点と
まずまずの成績を残しましたが
契約更新とはなりませんでした。

その後はメキシコとベネズエラを往復しながら
野球を続けていた2017年、イタリアの
パルマ・ベースボールクラブと契約、
主砲としてチームを牽引したのです。

メジャーという野球の頂点で何年もプレーし
それなりの財も築いた助っ人は
「何故こんなところでプレーしているのかって?
まだプレーできるし野球が好きだからだよ。
ここにはいろんなヤツが流れてくるんだ。
俺も日本をはじめ、多くの国でやっていたよ。
そういえば村田はどうしてる?
まだ野球を続けていたら嬉しいね」と
数百人で満員になる球場内の一室に住み込み、
夜は蚊が大量発生するグラウンドで楽しそうに
プレーすると、月20万円の給料で買った
ハンバーガーを口にしました。

2018年12月6日、ベネズエラ冬季リーグに参加していた
カスティーヨは
遠征先の首都カラカスでのナイトゲームを終えると
エンゼルスで大谷翔平の同僚だったルイス・バルブエナと
ヤクルトに在籍していたカルロス・リベロが運転する
ワゴン車に乗り込みましたが、そこで悲劇が起こったのです。

本拠地バルキシメトに戻ろうとベネズエラ北部の都市
ヤクライ付近の高速道路を走行中、路上に置かれていた
岩に激突して車外に放り出されたカスティーヨと
ルイス・バルブエナは即死、運転していたカルロス・リベロは
一命を取り留めたものの重体となりました。

ベネズエラでは路上に岩を投げ入れて走行車両を足止めさせ
金品を奪う強盗事件が頻発していた事から
今回も同じ手口の犯行と警察当局は発表し
4人を逮捕しましたが、37歳の若さで命を落とした
ナイスガイに対して横浜とロッテは哀悼の意を表し、
海の向こう台湾でも多くのファンが悲しみに暮れたのです。

もともとショートを守っていましたが
コンバートされたセカンドで
類まれなる身体能力とMLBトップクラスの強肩を生かした
守備で高い評価を受けると
アメリカ野球殿堂入りを果たした名セカンド、
ビル・マゼロスキーから
「現在のメジャーで最高の二塁手」と絶賛された助っ人は
4大陸、7ヶ国を股に掛け、23着のユニフォームに袖を通すほど
心の底から野球を愛した究極のジャーニーマン、
ホセ・カスティーヨ

いかがでしたでしょうか?
これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

この記事が参加している募集

すごい選手がいるんです

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!