青炎は燃えているか?

幼い頃、絵本を描いた。

同じ年頃の女の子達が描くような、ピンク色でスカートを履き片耳の折れた兎には目もくれず、白鳥や鹿ばかり描く幼児だった。
そしてある時、「鷲(ワシ)」を描くことが気に入っていたらしいわたしは、鷲の絵本を描いた。幼稚園に通っていたから、4〜5歳の頃である。

タイトル以外には言葉のない、絵だけの絵本。
高い山の頂上の巣で卵から孵った鷲は、成長し、大空へ飛び立ち、伴侶を見つけ、最後は狩人の矢によって斃れる。そんな一生を描いた物語だ。
題名はないのか?と父親に聞かれて書き込んだタイトルは、「わしのたび(鷲の旅)」。

得意になって幼稚園の先生に見せに行くと、先生に「よく描けているわね。でもタイトルは、『ワシのいっしょう』なんじゃないかしら?」と言われた。

一生とは旅のようなものである、というようなことを感じていたらしいわたしは、子供心に「こいつセンスねぇな」と思ったようだった。

 

小学校三〜四年生ぐらいの頃、学校で写生会があった。
私は授業で出かけた公園にあった、石灯籠を題材に選んだ。
写生なのだから、と、できるだけ写実的に描くことを心がけた。鉛筆で限りなく正確に輪郭を描き、実物に近い色を調合し、石のグラデーションもそのままに再現した。子供にしてはとても精巧に描けていたと思う。

そこに当時仲の良かった子がやってきて、「同じの描いてもいい?」というので快諾し、二人で仲良く灯籠を描いた。

後日、彼女の石灯籠の絵が学校内で賞を取った。
構図は全く同じ、そして実物の灯籠にはあんまり似ていない。一つ大きく違う点は、彼女の石灯籠の輪郭には、黒の絵の具でとても太い縁取りがしてあったこと。
力強くて、元気な子供らしい絵、という意味ではとても目立つ。私は「現実にこの子には輪郭が見えていたのだろうか?いやそんなはずはない。写生会なのに写実的ではない絵もありなのだな」と衝撃を受け、それによって視野を広げられた。

きっと、掲示して遠くから見た場合、私の絵は輪郭がぼんやりしてよくわからない絵になっていたのだろう。
しかし私の目にはしっかりと色の差異が際立って見えていたし、背景と同化しそうに近い彩度であっても、明度や色相が異なれば全く違う色としてくっきりと見分けることができていた。
私はその現実世界の繊細なコントラストを美しいと思ったから、できるだけそれをそのまま伝えるように描いただけだった。

子供心に、私は「審査員の先生、美的センスねぇな」と思った。

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先日、「熱さとは何か」の話になった。
私の好きな刑事ドラマというジャンルを引き合いに出すと、「太陽にほえろ」のような熱血!殴る!叫ぶ!ドカーン!汗まみれ、血まみれ!怒鳴り合い!撃ち合い!みたいなものは熱くて、「相棒」や「SPEC」などはクールでスタイリッシュだから熱さとは無縁、という話の流れだった。

なるほど、確かにそうだ。
熱さとクールさの差が、見た目にわかりやすい。

では私が熱いと思うものは何か?
これは根本的な話になってくるから、よく考えて整理してみなければならないと思った。

前述の熱いドラマは本当に熱くて、クールなドラマは本当に熱くないのか?
わたしはクールな方のドラマには、本当に熱さを感じていないか?

否。見た目には現れない、とても強い熱さを私は感じているな、と思った。

熱さの基準を考えた時、炎の色と温度の関係を思い出すことがある。

炎の温度は、赤く燃え盛るキャンプファイヤーのような色の場合、最も低く1500度。
そこから黄色になると約3500度、白で約6500度。さらに青になれば、約10000度を超える超高温となる。

芝居もそうで、叫んで暴れ回るシーンのエネルギー量はそのままに、それを圧縮して圧縮して極限まで抑えた一点を抱えたまま放つ静かな言葉の熱さは、叫ぶタイプのセリフの熱さを圧倒的に凌駕すると感じている。
(中学か高校の時これでまた「センスねぇな」と思ったエピソードがあるが、それはまた後日)

私の理想とする熱い関係性の最たるものは、戦国あたりの武将とその臣たちの、命を預けあう強い絆だ。
「こいつのためなら死んでもいい、こいつになら殺されてもいい、自分の命よりこいつが大切だ、しかしこいつが必要とするなら俺が殺すことも厭わない」など、列挙すれば深みにハマるが、人と人として存在を認め合い、全てを背負い合う覚悟と信頼で結ばれた最強の絆が生み出すエネルギーが、最も熱いドラマ性を持つと思う。

そしてその中でも、「好きだ!嫌いだ!ワー!」などと表出することが決して無く、無言のうちに、または、選びに選び抜かれた少ない言葉の中で交わされる、10000度以上にまで超圧縮された高エネルギーのやりとり。そんなやりとりとして描かれるシーンが至高だと思っている。
(ある意味BL的な考え方なのかもしれないが)

そんな関係性に近いのが、現代であれば刑事ドラマなどのバディものとして現れてくる。

そういう意味では、SPECなんかは特に、そんな絆で結ばれているバディの二人と、それを命懸けで信じて支える仲間たちが、言葉には滅多に出さないが共に戦う熱すぎるドラマだ。
私はどうも、「見た目よりも本質が、全てを焼き尽くすほど熱いもの」が好きなようだ。

熱さには種類がある。
いろんな熱さを愛しているが、その中でも超高温の青い炎の圧倒的な熱が特に好きだ。

もちろん、それを演技で表現しようとすると大変に難しいと思う。その演技質を選択する者も少なければ、実際に高エネルギーを込めた抑えた芝居をちゃんと体現できる者も少ないだろう。
しかし私はそれを美しいと思うし、それを目の前に現出させるための挑戦をし続けたいと思っている。

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人生を振り返ってみるとこのように、誰もが共感できる感性を持っているわけではないらしい。
しかし、わたしが本当に良いと思う時は必ず本質をとらえている、と、そこだけは何故か自分を信じてもいい気がしている。
誰かが美しいと思うものは、よくわからなくても必ず何かを見た人の心に伝える。
夕陽に照らされたゴミや、ぼろぼろのアンティークの洋服、打ち捨てられた廃墟だって美しさをたたえているのは周知の事実だ。

他のことでは全くアテにならないポンコツだらけの欠陥人間だが、信じた美しい景色をどこまでも磨くことだけはしていようと思う。
せめてそれが世界にひとすじの楽しさや、美しいものを見たときの快さなどを残すことにつながるなら、価値はあるのではないか。
そう信じることで、せめてもう少し、と、日々の命を永らえている。

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