大日本帝国の「実在」と戦後民主主義の「虚妄」

・2010年5月9日、ブログに公開した文章の転載
 
大熊信行が占領と民主主義は矛盾するとして、戦後の民主主義を占領民主主義と批判し、丸山眞男がそれへの対抗のように「大日本帝国の実在よりは戦後民主主義の虚妄に賭ける」と発言(著作に記述)し、そのことが戦後の思想言論空間上でちょっとした話題になったらしい。ただし、実際に両者の間で議論や対話があったわけではないそうだ。

一般的には、この二人は戦後民主主義をめぐって対立しているとみられているらしいが、現状の認識においても理想とする政治・社会の在り方についても、両者の間ではそれほど大きな違いはなかったのではないだろうか。
丸山眞男は、先の発言(記述)を素直に受け取れば、戦後民主主義が大日本帝国のような実在にはなっていないと認識していたことがわかる。一方、大熊信行も戦後の日本を占領民主主義と批判したからといって、決して大日本帝国の実在に回帰しようとしていたわけではないだろう。大熊は自身を護憲派と任じていたそうだから、戦前回帰を志向していたとは考えにくい(ただし、憲法9条の絶対平和主義思想を支持する立場から護憲派を名乗っていたそうであるが)。

大熊と丸山の一番の違い、それは戦後の日本がアメリカの従属下にある、そのことに対する意識の違いだろう。大熊は民主主義を支持するか否定するかよりも、自国が外国の従属状態にあることを問題とした。それに対して丸山は、日本がアメリカの従属状態から脱すると同時に大日本帝国の実在に後戻りすることを何よりもおそれていたのだろう。特に戦後の日本で権力をもっていた右派・保守派の政治家たちが、戦後憲法・戦後民主主義に対して否定的な態度をとっていた状況では、戦後民主主義を維持しながらアメリカの従属状態を脱するというのは、ほとんど不可能に近いと考えていたのだろう。

戦後民主主義を維持するために、日本が外国の従属下にあることを(消極的ではあれ)受け入れるという姿勢は、その後左派・リベラル派の知識人たちに継承されているようにみえる。右派・保守派の知識人(の一部)が「アメリカの従属状態からの脱却」を主張しているのに対して、左派・リベラル派は自国が外国の従属状態にあることに対して鈍感な人が多いように思える。
(非武装中立を主張する共産党・(旧)社会党系の人たちは、反米あるいは対米自立派といえるのかもしれない。また、右派・保守派の人たちも本気で従属状態からの脱却を望んでいる人は少数派で、大部分の人は「アメリカの従属状態を維持したまま、戦後憲法・戦後民主主義を否定する親米右派・親米保守」だろう。また、思想的に左派・リベラル派といえる宮台真司が、「アメリカの従属状態からの脱却」をつよく主張し始めるとともに右翼的な物言いをするようになった現象が興味深い。)
 
タイトルの話題に戻ると、大日本帝国の実在に回帰しようとする人たちは現時点では少数派だろう(将来的にはわからないけれど)。では、丸山眞男が賭けようとした戦後民主主義は大日本帝国のような実在になったのか。私自身の解釈では、戦後民主主義は大日本帝国のような実在にはなっていない(といっても、私は大日本帝国の実在に回帰すべきとも回帰したいとも思っていないが)。そして、その最大の原因は日本の戦後民主主義が占領民主主義だったからだろう。民主主義とは、文字通りその国に住む人たちが自分たちの意志と力で作り上げなければ、血肉とはならないのだろう。国民と政治家の大多数が明治的な政治意識しかもたない社会に、占領軍の力を背景にして先進的な民主主義憲法や政治制度を導入しても、生きたものにはならないだろう。

現在の日本人は、大日本帝国の実在に戻ることを拒否し、かといって戦後民主主義を大日本帝国のような実在にすることもできず、宙ぶらりんのままうろたえているようにすらみえる(ただし、自民党の議員の中にさえ「リベラルデモクラシー」の理念や価値観をもった人が少しずつ増えてきているから、あと何十年かすれば、戦後の民主主義も少しは実在に近いものになるかもしれない。もっとも、その前に揺り戻しがおこる可能性も高いけれども)。

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