エンターテイメントをめぐる言論

・ブログに2010年12月13日公開した文章の転載
 
柄谷行人のインタビューや対談をいくつか読んでみたが、エンターテイメント(娯楽作品)は評価していないだけでなく、興味も関心もないらしい。
「批評空間」の共同編集委員だった浅田彰は、思想や芸術に造詣が深いだけではなく、エンターテイメントにも一通り目配せしていた。

この違いは、個人的な趣味・嗜好、価値観の違いにすぎないのかもしれないが、世代的(時代的)な影響も大きいのかもしれない。
柄谷世代の知的エリートにとっては、「娯楽作品は大衆が楽しむもので、知的エリートが触れるものではない」といった価値観が支配的であったのだろう。
大衆小説などを愛好している学生は、仲間内から馬鹿にされたり低くみられるといったことがあったのかもしれない。
柄谷行人と同世代と思われる大学の教授が、大衆小説のファンだったことを恥ずかしそうに語っていた雑誌の記事が妙に印象に残っている。

一方、テレビが普及し大衆社会化が進行した浅田彰の世代では、エンターテイメントのことを知らない学生は、勉強ばかりしている世間知らずとして逆に揶揄の対象となっていたかもしれない。
回りの人間に低くみられないためには、娯楽作品の知識も一通り仕入れておく必要があったのかもしれない。
(ただし、これは浅田彰が回りの人間から低くみられることを嫌う性格だったら、という仮定の話にすぎない。本人は回りの評価など気にしない人間で、単に趣味として娯楽作品が好きだっただけなのかもしれないが。)
 
浅田彰より一回り以上若い東浩紀は、現代思想と同じ位アニメやゲームなどのサブカルチャーが好きで、現代思想を語るのと同じ比重をもってサブカルチャー(エンターテイメント)を批評の対象にしていたらしい。
(サブカルチャーをまともな批評の対象としたことに対してはかなり批判があったらしいが。)
東浩紀より下の世代の宇野常寛は、サブカルチャー(エンターテイメント)を批評の対象にしているという点で上記の3人とはかなり異質といえるかもしれない。
 
エンターテイメントには興味関心のない柄谷行人。
エンターテイメントにも目配せをしていた浅田彰。
思想とエンターテイメントを同列で批評の対象としていた東浩紀。
エンターテイメントを批評の対象としている宇野常寛。
 
有名になった批評家・言論人のエンターテイメントに対する接し方が、時代の変化を感じさせて結構興味深かった。
主流文化の大衆化が時代とともに進行した現象を象徴しているのかもしれない。

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