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自分の物語を自分でつなぐこと

どうしても、日常に「もやもや」してしまって、文章をかきたくなってしまうときがある。

たとえば、未来に対するなんとなくの不安がとめどなく溢れてきてしまい、なにか吐き出し口がほしくなったときだ。

そんな時よくあるパターンは、子どもの頃だったら親に話すのかもしれないし、大人になったら友達や恋人に話すのかもしれない。

ただし、僕はどれも苦手でどちらかというと、避けてきた。そんなこども時代だったし、今も得意ではない。だからこそ、書くのだ。

最近になって、「なぜ、書くのか」に対して、これだ!、と思えるものにぶち当たった。

物語は、アイデンティティを形成する。そこには、個人としてのアイデンティティと、所属する集団のアイデンティティの両方が含まれる。私たちは、過去についての物語を語る。過去を懐かしみ、美化する。未来についての物語も語る。未来を予測し、夢想する。そして現在についての物語も語る。自己像を構築し、楽しい空想にふける。 『知ってるつもり 無知の科学』,p79

noteを書く行為は現在の物語を綴ること。現在の物語を綴り、自分の物語をこうなればいいなあ、という方向に修正する作業だ。

またそれは、ばらばらな今という断片を必死にかき集め、忘れずに型のないパズルに当てはめていく作業でもある。

そして、過去のnoteは現在につながっている物語。過去の物語があるからこそ、今がある。自分の考えを確認できるからこそ、今をもっと強く生きられるのだ、と気づいた。

自分を確認できない場合、「自分=組織の考え」になっていくと思う。

所属する集団のアイデンティティに自分のアイデンティティを染めたくない。それは、依存先を一つに絞るという行為だし、対等な関係ではないのだから。

未来は変えても、自分のアイデンティティ、"生き方"までは変えたくない。自分は自分で持っていたい。

自分の軸を保つために、染まりそうな自分に気づいて「ストップ!」といえるように、これからも今の物語を綴り、自分のアイデンティティ、自分の生き方を綴っていこう。

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