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動き始めた

色々な台本が揃った。
稽古場に3作品もの台本が揃うというのはなんというか嬉しい日だった。

自分の書いたショートフィルムのシナリオを推敲してからPDFで書き出す。
稽古場でプリントアウトしたものを皆に読んでもらう。
事前にメールでもデータでも送っておいたのだけれど、紙で手にするとまるで違うという声が数人からあがる。そういうものなんだろうか。
でもたしかに紙であればランダムアクセスが可能だ。
データだと、前のページに戻るのにスクロールして、今のページが消えてしまう。紙であれば並行して前のページを引き抜いたりも出来る。
いわく、流れがわかるという声もあった。
流れはデータでもわかると思い込んでいたけれどそういうものなのだろうか。

シナリオにはいくつかの位相があって、なかなか言葉で説明しきれない部分も出てくる。絵コンテならぬビデオコンテを空いている稽古時間にちまちまと撮影していこうと思っている。それをもう一度役者たちが観れば、そこから更にクオリティが上がるんじゃないかという読みだけれど。

通常舞台の台本はセリフが重要になってくる。
舞台は視点が固定されていないこともあって、もしも物語を成立させようと思えば、言葉の力が大きなウェイトを占めていく。実はそこが最大の弱点とも言えるかもしれない。なぜなら言葉で物語を紡ぐという事は、いわば文学そのものになる可能性があるからだ。文学としての台本を戯曲と呼ぶ。
戯曲と台本の違いは、そこに上演される想定があるかないかだけかもしれないけれど、俳優の持つ肉体であるとか、精神性であるとか、言葉で説明がつかない部分をどこまで落とし込めるかにあるのだと思う。口語体で書かれたセリフの向こう側にその言葉の持つ意味以外にも、表現の裾野が広がっていて、それが舞台の魅力になっていくわけで。

自分は舞台をずっとやって来た分、どうしても言葉の力に頼りたくなる。
それを今回は可能であればセリフがないシナリオを書いてみるという挑戦から初めて、必要最低限の言葉だけ足していくという形にした。
映像は言葉を越えるほどの情報量がある。絵本に書かれている文字数が少ないのは絵の持つ情報量が大きいから物語として成立させることが出来る。ましてや映像は絵や写真を越える動画という情報量なのだから、言葉の持つウェイトがどんどん軽くなっていく。
逆にきっと映画の弱点はここで、セリフの持つ力というものをどうしても軽んじてしまっているような感覚もある。ここのセリフは絶対にもっとすげえのがあるよなぁって思う事が映画で時々あったりする。シナリオは未だに文学としては未成熟なのかもしれない。
そう思って大事な台詞だけは先に決めておいた。

なんて色々考えてみんなに配ったけれど。
内心はドキドキなわけです。ビクビクなわけです。
どんな感想を持ったかな?どんなふうに読んでいるかな?
自分の配役に不満を持っていたりしないかな?
そんなことを色々に考えちゃったりはするわけです。
出演者の皆様と、参考意見をお願いする方と。
どんな言葉がこれから来るだろうなぁ。

想像していた配役と違ってたみたいだし・・・。

まぁ、撮影できるか完成できるかもわからないし。
仮に完成しても公開するとかは今は何も考えずに製作するし。
これが今出来るいくつかの道の中で最善の道だろうと思えることを粛々とやっていくという事なのだけれど。
それでもやっぱりやると口にすれば、責任が出てくるわけで。

そんな中。
デビさんから1月の舞台の台本が数ページ。
そしてその稽古が始まるという、素晴らしい日になった。
うん、はじまった。
プライオリティとしてはこの公演の稽古が最優先!
そこで舞台も映像もどんどん作品を出していける体制にまで行けたら面白いなぁと思っているんだけれど。
集団として作品を提出できる道がいくつかあれば、それは全て可能性に繋がっていくのだから。

お盆が過ぎて秋冬に向かう感じになった。
さてとここから何があるかね。
どんな風に動き始めるかなぁ。
意外な流れも起きるかもしれないし。
8月末にはセブンガールズの都内復活上映
9月には大分別府での九州初上陸上映
その間にも舞台の稽古、映像のお試し稽古が続く
そして想像を越えることだって起きるかもしれない。

よりクリエイティブになっていくといい。
面白いじゃないか。
うふふ。

無論しんどいのはかわらぬ。
シナリオを修正するならどこかなぁ。

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