見出し画像

季節とかの分かれ目

豆まきはせず、恵方巻は食べました。
一陽来復、陰から陽へ。
風習も色々と変換していくのね。
鰯の頭なんかやってる地域もまだあるのかなぁ。

よく舞台本番前に色々な公民館とかで稽古をしていたのだけど。
そういうところって隣接地帯に色々な地域的な場所があるのです。
区民館とか福祉館とか保育園とか。
そうすると節分とかの季節ものは厭でも目にすることになります。
一人だけなら何もしなくても、大勢集まるとイベントになる。
老人福祉館なんかでも節分とか春分とかすぐにわかるわけです。

一番、派手だったなぁと思ったのが保育園の節分です。
全身タイツにクルクルパーマ。金棒を持った鬼が窓の外にいて。
子供たちのギャーギャー泣きじゃくったり、こっちこいー!みたいな威勢の良い声が響き渡るという。
まぁ、後ろから見た先生たちの鬼が面白くてですね。
うがーとか言ってるんですけど、鬼の声ってうがーでいいのかなぁ。
それが豆をぶつけられて、最後にはすごいやられた感じで逃げる。

あれのすごいことはですね。
実際、クオリティが低いんですよ。鬼のフォルムとして。
なまはげとか、すごいじゃないですかリアリティ。
パッと見ただけで大人がみても恐い感じにしてあるわけですけど。
黄色の全身タイツで紙のお面とか、さすがに嘘過ぎる。
でも子供たちがわりと本気で信じているんですよ。
泣いている子とか、もうこの世の終わりみたいな顔をしている。
まぢか?それでも信じられるのか?
そんで芝居ね。
うがーも、やられたーも、安っぽすぎるの。
どこまでなんだ?どこまで信じているんだ?

僕のですね、子供の頃の記憶だとですけれども。
ある時期から付き合っているのです。
大人が子供を楽しませようとしているなら、よしよし、乗ってやろうじゃないかとこっちも全力でヒーローをやるというか。
嘘とわかりつつの共犯関係だったよなって思うのです。
でもクオリティが高いと厳しかった。
東京タワーかなんかでヒーローに会った時はすごいドキドキした記憶が残っているのであれは完全に信じていました。
子供だましではあるし、大人であればアホか!みたいなところがあるんですけれど、子供なりに完全に信じ切っていた。
でも遊園地のぬいぐるみキャラとかは、わりと小さなころからそのクオリティにだまされていなくて、中の人がいるとわかってた。厭なガキだ。

多分、個人差があるんだろうなぁとは思うのですけれど。
僕は厭なガキ側だったんだろうなぁっていう。
信じちゃうこともあるけど、そもそも疑っているというか。
だから僕はその共犯関係みたいなのは大人になっても苦手で、ミッキーと写真撮影するとか握手するとか、お、おう!な感じになってしまう。
わあ!って嬉しそうに抱き着いちゃえる人とか見ると、すげえなって思う。
あそこで全力で楽しみに行けるのは羨ましくもある。

多分なのですけれども。
この共犯関係を強いるのかどうかが一つの映像作品の境目なのだと思います。
一緒に乗っかって楽しもうぜの作品。
そういう作品に子供だましだとか、説明的だ!というのはなんの批判にもならないのだと思う。だって、一緒に乗っかってなんぼなんだから。嘘ですよ、嘘だけど楽しめますよって作品なのだから。
そういう作品につい批判を書いちゃうのは僕のような、乗っかるのが苦手な人の羨ましさのようなものかもしれない。
逆に共犯関係を強いない作品は自然と作品世界に入っていけるような奴で、それに対して楽しめなかったとかは感想としてずれちゃうという。
カテゴライズして分けて考えるのもつまらないことだけどさ。
なんというか、ふむふむこの作品はこうやって乗りこなす作品ね。みたいな見方の問題というか。

そういう意味では逆にクオリティの高さは重要ではあるけれど。
逆にチープならチープで、嘘ですよー!という宣言になるから大人なんかは共犯になりやすかったりするんだろうなぁと思ったり。

節分になると思い出すのです。
チープな全身タイツの鬼と。必死に泣きじゃくる子供の顔を。
僕たちは巧妙なディープフェイクに必死になっていると誰かに思われているのかもしれないなぁなんて思ったりもするのです。

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。