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COMITIA128お疲れ様でしたと通販について

COMITIA128お疲れ様でした!

改めて「COMITIA128」、お疲れ様でした。初参加ということで、勝手が分からず戸惑う場面もありましたが、たくさんの方にご挨拶もできて楽しい時間を過ごせました(*´∇`*)

個人誌、合同誌いずれも、想像以上の方々に手に取っていただけて嬉しい限りです。なお個人誌はBOOTHでの通販も開始しておりますので、興味のある方はよろしくお願いします。

作家探偵は〆切を守らない ピンときちゃったらやるっきゃない!https://onogamimeiya.booth.pm/items/1326712

サンプルはこちらです(pixivのものと一緒です)

合同誌のほうは通販の準備中です。手配が完了しましたら、またこちらでもお知らせします。

なお合同誌のほうに寄稿した「白き寿ぎ」は、読んでくださった方はお分かりかと思いますが、まあ……、そりゃ無配でもつるし上げられるナ……という内容でして……

元々こういう作風の方なら、おっ今度はこういうのか~と微笑ましく思われたのではないかと思うのですが、商業ではあまり出してこなかった部分を使ってしまったので……ヘヘ……

以前のnoteでも書きましたが、個人サイトにはその時の興味の方向に従って多様な小説を載せていました。今回もご挨拶の締めに一本、載せておこうと思います。

なお、こちらも次の「少女文学」にどうかな~とちょっと思っていたのですが、主人公が男性の時点でまず違う気がするし、ほかにもいろいろとアレがアレかなと思ってセルフボツにしました。

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「君に至る病」

 粗末な木製のベッドに横たわった少女の小さな体が震えている。
 はぁはぁと漏れ出る息はか細く、半分だけ開かれた灰色の瞳は熱っぽく潤み天井を向いていた。栄養不足でわらくずのようにぱさぱさになったあせた金の髪が、枕の上に扇状に広がっている。
 ベッドのかたわらには白衣のやせた男が立ち、強い死の気配に包まれた彼女を無表情に見下ろしている。
 四十代に手が届こうという実年齢から見ると一見若く見える。だがいささかやせ過ぎており、白いというより青白いに近い肌はたやすく病気を連想させた。
 実際彼には、以前長く床に伏せっていた期間があった。
 眼前でせわしない息を漏らすこの少女と同じ理由で。
「ファー」
 彼女の名を呼ぶ男の片手には、美しいエメラルドグリーンの小さなつぼが握られている。少女はそれに気付いて少しだけ嬉しそうな顔をした。
「イリアジン様」
 あどけない声が彼を呼ぶと、男は黙ってつぼの中身を小さな木のさじですくい上げる。
 とろりとした金色のものがさじに絡み付き、同時にかすかな甘い匂いが辺りに漂い始めた。水飴だ。
「ファー、今日も薬をちゃんと飲めたな。ごほうびだ」
「ありがとうございます、イリアジン様」
 それは嬉しそうにつぶやいたファーは、せわしない呼吸をする口をいつものように開いた。
 イリアジンはそれに応え、さじに絡ませた水飴を一すくい彼女の口に入れてやる。
「おい、ひい、です」
 ねばつく飴を口に含んでいるため、微妙にろれつの回らないような声で言うファーにイリアジンは薄く笑う。長く続いている高熱に視界がかすんでいるファーには分からぬ邪悪な笑いだった。
 馬鹿な子供だ。
 ごほうびのこの飴のせいで、自分が床に就くことになったとも知らないで。
 気を抜くと声を上げて笑ってしまいそうになる自分を抑えながら、イリアジンはファーの母親と初めて出会った日のことを思い出していた。ファーの年齢に二年半足せばいいのだから、もう十年近く前のことになるだろうか。

※※※

 どっしりとした肘掛け椅子に座っていたイリアジンは、木戸を叩く鈍い音に気付いて読んでいた黄ばんだ書物から眼を上げた。
 聞き間違いかと思ったがそうではない。窓から漏れ込む光の筋にくっきりと映し出された室内のほこりたちが、その音による振動にかすかに揺れているのが分かる。
 舌打ちし、よっぽど無視しようかとも思ったが、「イリアジン様、薬学士のイリアジン様はいらっしゃいますか」と呼びかける声は明らかに若い娘の声だ。あまり対人関係に対しては使用されない彼の好奇心が、この時わずかに刺激された。
 と言っても別に下心があるわけではない。辺境中の辺境と言われるミラディ地方にある、古めかしい家に引きこもって久しい彼には客自体少ない。
 近所の人間は近付いて来ようとすらしないし、大半がここアバルセス帝国の帝都アーノイなどの中心地を離れ、老後を静かな場所でと望む老人たちである。若い女など見たことがなく、彼はその手の小うるさそうな女が大嫌いだった。
「やっぱり覗き窓ぐらいいるか」
 顔見知りばかりの集まったこの土地ではあまり警戒心が働かないのか、屋敷の扉にはそれすら付いていない。帝都の方じゃ部屋に居ながらにして訪問者を特定出来る機器も売り出されたらしいのに、全く、と彼は自分の怠慢を棚に上げてぶつぶつ言った。
 こういう時は、召使の一人でもやはり必要かと思う。偏屈で有名な彼イリアジンは、自分が何かをしている時に人に横槍を入れられるのを何より嫌う。
 特に薬の研究に関することに没頭している時に集中力を切らされると、相手が女だろうが子供だろうが容赦しない。聞き手が泣き出すぐらいに汚い言葉を浴びせ、以降顔を見るなり避けられるぐらいになるのが日常だ。
 そもそも彼は、人間自体が好きではなかった。だからどれだけ優秀な召使を雇おうが、最終的には必ず自分で解雇してしまう。
 その内いつものように評判が立って、いつしかイリアジンの所で働こうという物好き自体いなくなってしまうのだ。おまけに彼は研究以外のことに関してはけちを徹底していたため、賃金の良さで釣ることは不可能だった。
 やむなくイリアジンは少し伸び始めた黒髪をぐしゃりとかき上げて立ち上がり、大股に廊下を歩いて玄関に向かった。長い足はもちろん体全体が一本の棒のように細く、やせた鋭い輪郭の中で切れ長の瞳が暗い輝きを放っている。
 放っておいて帰ってくれればいいが、いつまでもあのままでは研究の邪魔だ。最近はああして留守かどうか確認してから物盗りに入るような連中もいるらしいし、何にせよ自分が家の中にいることぐらいは知らせなければならないだろう。
 途中何かその辺りの物を蹴飛ばしたような気がするが、それはもう興味がないから放り出しているのだ。どうでもいい。
「何の用だ」
 名乗りもせずに扉を開いたイリアジンの濃い茶の瞳に映ったのは、驚いた様子の若い娘だった。
 二十歳を幾つか過ぎたほどか、そろそろ三十に手が届こうというイリアジンよりは若いだろう。やわらかそうな茶色の髪を一つに束ねた、長い白いスカートのよく似合う清楚な雰囲気の女性。
 早春に当たる今の時期の空気を体現したような彼女は、この辺りで見かけたことがないのはもちろん、これまでのイリアジンの記憶全体の中にもない相手だった。
「イ、イリアジン様?」
 先ほどかき上げた跡がそのまま残っているぼさぼさの髪に、一見して数日着ていると分かるしわだらけの薄青いシャツと黒いズボン。シャツの上に羽織った灰色がかり始めている白衣が、一応薬学に携わる者に相応しいと言えるだろうか。
 およそ客を迎える風体とは思えぬイリアジンに彼女はしばし絶句していたが、急いでぺこりと頭を下げて名乗る。
「私、ファリアと申します。その昔あなたに助けて頂いた者です」
 イリアジンはうさんくさそうにじろじろとファリアの顔を眺め、素っ気なくこう言った。
「俺はお前を診た覚えはないぞ」
 人間味に欠けた性格のイリアジンだが、造物主はその欠けた部分をそのまま才能へと振り替えていた。
 彼は自分が一度診た患者のことは絶対に忘れない。そして、ファリアには全く見覚えがない。
 整形手術でもしてまるっきり人相を変えているというのならとにかく、少々年数が経とうがイリアジンには分かる。人相学も少々かじっている彼は、顔付きを見ただけで血縁関係を看破することさえ出来た。
 するとファリアはようやく笑顔になってこう言った。
「あの、イリアジン様に直接看て頂いたことはないんです。覚えていらっしゃいますか? あなたがアーノイにいらした時、伝染病の薬を幾つかお作りになって、それを無料で配って下さったでしょう?」
 ああ、とイリアジンは横柄にうなずいた。
「そんなこともしたな」
「私、あの時のお薬で命を救われたんです! 完全に元気になったら、必ずご恩返しに行こうと思っていました。あなたが王立医療研究所を出られたと聞いて、ずっとお探ししていたんです」
 茶色い瞳を輝かせ、熱心に語るファリアに対しイリアジンの心は特に動かない。
 彼女が言うことは真実だし、ちゃんと覚えてもいる。確かに帝都にいた時は王立医療研究所に勤務していたし、幾つか伝染病に関する薬も作った。
 だが、薬の無料配布自体は王政府の慈善事業政策の一環に過ぎない。イリアジンは王立の研究所にいたから、普段の仕事と同じように言われたことをこなしただけだ。 
 とはいえあの病気に対し、あれほどの効果のある薬を作ることが出来たのは、間違いなく自分の貢献のおかげであるとイリアジンは自負している。付け加えれば無料配布などということはせず、幾らかでも金を取るべきだったのではないかと今でも思っている。
 薬の作成者として自分の名前だけがもてはやされたと陰口を叩く同僚もいたが、真実が真実として広まったのだ。なぜけちを付ける必要があるのか、とイリアジンはごく普通に思っていた。
 辺境の農家の次男として生まれた彼は、幼い頃から神童としてもてはやされた天才少年だった。特に学があったわけではない両親は、欲しい物と言えば本ばかりをせがむ息子をまるで違う世界の生き物を見るような眼で見ながら育てていた。
 普通そのような生まれの者が何かを正規に学ぶなら、まずは学校に入るなり個人的に教えてくれる師を探すなりするのが普通だ。だがイリアジンは従来の制度を一切利用せず、十代後半までで手に入る限りの先人の書物を読み尽くし独学で薬学を究めた。
 その後は四方から押し寄せた後見人志望者の中から最も裕福で懐の広かった者、つまりはアバルセスの王の全面的な支援を受け王立医療研究所に勤務。多くの功績も残したが、数年の後、彼以外の研究員たち全ての署名入りの嘆願書によりイリアジンは研究所から除籍された。
 理由は簡単だった。彼には対人関係を築き、維持する能力がまるでなかった。
 気まぐれで傲慢、自己中心的であり、人をけなすことはあってもほめることをしない。上司に対しては一応の礼儀は守ったが、正直の範疇を越えた辛辣な物言いの全てをにこやかに聞けるほどの器を持った上司は稀である。
 これで無能であれば簡単に首になるだろう。だが生憎と、イリアジンは研究所設立以来の優秀な人材だった。
 そのため王および研究所の上位の人間は彼の同僚たちをなだめすかし、あるいはお前たちこそもっと努力しろと言い続けて来た。イリアジンは悔しさに今にもなぐりかかって来そうな同僚たちを見てにやにやしていたが、最後の最後にしっぺ返しを喰らったわけである。
 あれからもう二年余り経った。
 昔の同僚たちは次々と出世し、定期購読している薬学の専門誌にも提灯記事といっしょに繰り返し登場している。
 昔から息子の扱いに困っていた両親とは、帝都に行った辺りからすでに絶縁状態になっていた。彼らは多分、自分たちの息子がこんなところに引きこもっていることさえ知らないだろう。
「イリアジン様、あの……」
 腹立たしいことまでいっしょに思い出してしまい、あからさまにむっとした顔になったイリアジンにファリアがおずおずと言う。
「お一人でこちらにお住まいと近所の方に聞いたのですが、よろしければ私を雇って下さいませんか? 家政婦代わりぐらいにならなれると思うのですが」
 思わぬ、しかもかなり唐突な申し出にさすがのイリアジンも眼を丸くした。
「お前が? ……いや、俺は高い賃金など払う気はないぞ」
 警戒したように、しかもかなり不躾なことを言う彼にファリアはにこりと笑う。非常な美人という訳ではない彼女だが、イリアジンでさえ思わず眼を奪われるような明るい笑顔だった。
「賃金なんか要りません。生活に必要な、最低限のお金だけ頂ければ大丈夫です」
 頼もしい台詞に続き、彼女は改めてまっすぐな瞳で彼を見上げてこう言った。
「あなたのことを悪く言う人はたくさんいました。けれど、私はあなたに命を救って頂いたんだと思っています」
 ある程度のことは聞いて来たのだろう。もしかすると王立医療研究所を辞めさせられた顛末辺りまで聞き及んでいるのかもしれない。
 それでも彼女はここへ来た。そして真剣な顔をしてこう言った。
「どうか、恩返しをさせて下さい。私をあなたの側に置いて下さい、イリアジン様」


 ファリアがどう思ったかは知らないが、イリアジンが彼女の「側に置いて下さい」発言を聞いて一番最初に思ったのは「この女、使えるかもしれない」だった。
 感謝されるのはもちろん当然だ。ファリアが言う通り、自分は彼女の命の恩人。まともな神経を持った人間なら、そりゃあ感謝ぐらいするだろう。
 だがそれを、こうも正面切って言われるのはずいぶん久し振りだった。
 加えてファリアは明るくはきはきとしていて、頭も悪くなさそうだ。見た目もまあ合格点だろう。少なくとも女性の好みにうるさいイリアジンにも不快感を与えないことは評価出来る。
 それに、認めたくないがほんの少しだけ、さしものイリアジンも人恋しくなっていた。
 わずらわしさを避けるため、食料なども含めて生活に必要なものは全て契約を結んだ店から取り寄せている。かつて築いた財産で困らない程度には暮らしていける。自分が作成者として権利を持つ薬もいまだ幾つも使われているので、その分の使用権利金が毎月帝都から振り込まれているから、少々贅沢をすることも出来た。
 しかし、直通の通信管で店に注文を出す時以外、ここ一年ほど全く人と話していない。
 雑談を好む性格ではない。意味もない会話など無駄の最たるものとも思っているが、あいさつの一言を交わす相手すら近くにいないのだ。
 結局彼は彼女の提案を受け入れ、ファリアはイリアジンの身の回りのこといっさいを任されるようになった。
 神経質で口うるさいイリアジンの注文に、彼女はなんでも笑顔で応えた。事あるごとに「イリアジン様は私の恩人ですから」と口にし、多少傷が入り始めていた彼の自尊心を心地良く撫でさすってくれる。
 一月目は何事もなく過ぎた。
 二月目も大きな出来事は何もなかった。
 三月目、新しい研究に没頭したイリアジンはファリアに自室へ来ることを禁じた。
 イリアジンが閉じこもった屋敷の中では、彼にはファリア。ファリアには彼しか話し相手はいない。
 その彼が閉じこもってしまったため、ファリアは三度の食事を彼の部屋に届ける以外全く人と触れ合わずに過ごした。イリアジンは彼女にも自分と同じような生活を送るよう言い付けており、そのため彼女は近所に話し相手を作ることすら許されていなかった。
 四月目、ようやく一つの研究に飽いたイリアジンにファリアは少しよそよそしい態度を取り始めた。
 五月目、六月目、七月目がそうして過ぎた。一年を十ヶ月で区切ったアバルセスの暦はイリアジンにとっては瞬く間に過ぎたが、ファリアにとってはそうでもなかったようだ。
 一年が経つころには彼女は全く笑わなくなり、何かにつけ屋敷を出る許可を欲しがるようになっていた。遠くに行くというのではなく、自分の目で見て買い物をしたいとか、ちょっと息抜きをして来たいとかそういう他愛もない事でだ。
 しかしイリアジンとしては家の中のことを取り仕切り、いつしか研究の助手のようなことまでこなすようになった彼女を容易に外には出せない。便利さを失いたくないのと、自分や研究のことを外に漏らされたくないからだった。
 何度も申し出を却下されるたび、ファリアはやがて何も言わなくなった。
 イリアジンは彼女はようやくこの家の決まりに馴染んだのだとしか思わなかったが、ある日偶然ファリアが台所からこっそり外へ出ようとしたのを目撃してしまった。
 彼はかつて散々やったように口汚い言葉で彼女を罵り、気丈なファリアを涙ぐませた。
「今更お前に出て行かれては困るんだ」
 泣いているファリアを忌々しそうに見ながらイリアジンはぶつぶつと零す。
「俺のところに来たいと言ったのはお前なんだからな。恩返しに来て恩人の言うことを聞けないとはどういう了見だ」
「申し訳ありません。本当にごめんなさい」
 ファリアはただ泣きながら謝罪の言葉を繰り返していた。

※※※

 連絡を受けてミラディ地方の軍警察本部にやって来たイリアジンは、説明を始めようとする担当官を無視して、固い長椅子に座ったファリアをにらんだ。
「どういうつもりだ」
 季節は巡り、また春になっていた。だがイリアジンの心中はこの季節特有の穏やかさとは程遠い。
 それはファリアも同じようだった。彼女は軍警察の観察下にあるという事態には緊張している様子だが、イリアジンの到着にもさほど表情を変えない。ただ一つ、わざとらしい深いため息を吐くばかり。
 一年前とは比べ物にならないほど不健康な顔色の彼女が、イリアジンの屋敷から突然姿を消してから二日目のことだ。
 朝は人の手を借りずに起きるイリアジンだが、いつまで経っても食事が運ばれて来る気配がないことを不審に思い、家中を探し回った。執拗な探索にも彼女の姿は発見出来ず、彼はいつかファリアが禁じたにも関わらず外へ出ようとしていたことを思い出した。
 イリアジンは迷った挙句に昔のつてを利用し、ミラディ一帯に触れを出させ、ファリアらしき女性を見付け次第保護して自分に連絡するよう要請した。珍しい彼の、しかも女性絡みの頼みごとにからかわれるのも二度や三度ではなく、そのたびにイリアジンの自尊心は著しく傷付けられた。
 放っておけばいいじゃないか、とも何度か思った。
 この自分が固執するほどの魅力を持つ女じゃない。最初こそは少しまぶしさを感じるようなこともあったが、出会ってこれだけの期間が経った今、彼女はただの召使だ。よく働きはするが、召使がよく働くのは当たり前だろう。
 だがこの一年、以前とは比べ物にならないほど自分にとっては快適な生活を満喫していたイリジアンには唐突な彼女の行為が理解出来なかった。
 偏屈だ、人付き合いが悪いとは言われ慣れている。けれどファリアはそうと知った上で自分に恩返しをしようとやって来たのではなかったか。
 生活に必要なだけの金は、毎月家計状態をきちんと確認した上できっちり渡している。彼女の誕生日には一応贈り物もしたし、実は来たる出会って一年目の記念日に向けて、ささやかな祝宴を開こうかとさえ思っていた。
 この自分が、近頃顔色が冴えないファリアを気遣ってそんなことを計画してやっていたのだ。それなのに。
「私を連れ戻しに、わざわざご自分で来られたんですか」
 長い沈黙の後、ファリアは目線をイリアジンに向けないままつぶやいた。うつむいたそのの顔には奇妙な老いの気配がある。
「そうでしょうね。あなたは他人を信用しない人だもの」
 意味の分からないことを言う彼女に眉をひそめながら、イリアジンは担当官の差し出した書類に署名をしファリアを連れて家に帰った。道中彼女は一言も口をきかなかった。
 イリアジンは途中までファリアにそれとなく話しかけていたが、途中から馬鹿馬鹿しくなり自分も口を閉ざした。家に入るなり久し振りに着た白衣ではない上着を脱ぎ捨て、いつものように言う。
「食事は部屋に運んでくれ」
 それを聞いた瞬間、ファリアがぶるりと肩を震わせた。
 奇妙な彼女の行動にイリアジンが不思議そうな顔をする。その、純粋にただ不思議そうな顔を見て険しかったファリアの顔が不意に弛緩した。
「あははははは!」
 突然の大きな笑い声にイリアジンがぎょっと身を引く。するとファリアはますます笑い転げ、目尻に浮かんだ笑い涙を指先でぬぐって言った。
「そうです、そうですよね、あなたはそういう人だもの。ああ、おかしい!」
 おかしいと言うのなら、確かにファリアのここ数日の行動は謎だらけだ。まさか気でも触れたのかとイリアジンは危しんだが、彼女は急にいつも通りにてきぱきと、留守にしていた二日の内に早くも散らかり始めていた室内を整理し出した。
 最初の数日はそれとなくファリアの様子を気にかけていたが、彼女はむしろ前より熱心によく働くようになっていた。
 特にイリアジンがその辺りに放り出した専門書関係を、種類別に整理して並べ替えてくれるのは助かる。今まで彼女は私は薬学など、と尻込みして、題名すら読もうとしない有様だったことを考えれば格段の進歩だ。
 イリアジンは安心し、これまで通りの安寧な暮らしが戻って来たことに喜んだ。
 けれど捜索の手間をかけさせられた恨みは残った。出会って一年目の祝いなどやめようと彼は心に決めた。

※※※

 何かがおかしいと思い始めたのは、ファリアが突然失踪して戻って来てから一月余り経ったころだったろうか。
 徐々に近付いて来る夏はイリアジンの大嫌いな季節で、うだるような暑気にちょっと管理の手間を惜しむと痛みやすい薬品がすぐ駄目になる。直射日光や湿気に弱いものも多く、かといって地下の保存庫に一々取りに行くのは大変だ。
 帝都から取り寄せた最新式の小型の冷却庫はすでに一杯。予約待ちの二台目が早く届かないかと思いながら、彼はファリアにいれさせた茶を飲んでいた。
 何の気なしにその茶をすすっていた途中、ふとイリアジンはめまいを感じた。
 今朝方から少し、熱っぽいような気はしていた。だが平熱が低めの彼は周囲の気温が上がるとそう錯覚することが多かったので、別に気にも留めていなかった。
 おかしいなと思いながらそのまま過ごし、いつも通りの一日を終えて真夜中にベッドに入る。
 翌朝から彼は、全身の気だるさと倦怠感のために、そこから容易に出られなくなってしまった。


 微熱がじりじりと上がっていく。
 常に喉が渇くような感じがして、ベッドサイドにいつも必ず茶を切らさず用意するようファリアに言い付けた。だがどれだけ喉を潤しても満たされることはなく、その内咳が止まらなくなって夜も眠れない日が続いた。
 仮にも薬学というものに携わった人間として、医者にかかるなど断じて御免だ。熱でふらふらする体を無理に起こし、彼は自分の身に起こっていることを知ろうとした。
 真っ先に疑ったのは、過労による風邪やそれに類するものだった。ファリアが来て日常の雑務に心を砕く必要がなくなったイリアジンは、日々の時間全てを研究のために充てていたからだ。
 しかしいくら寝ようが精の付きそうなものを食べようが一向に回復しない。では何か別の、例えばミラディ特有の風土病か何かかとも見当を付けたがそれも違った。大体風土病の噂がある土地にイリアジンだってわざわざ引っ込んだりしない。
「帝都の病院へ行かれますか?」
 何度かファリアに聞かれたが、そのたびイリアジンは逆に意固地になっていった。
「俺を誰だと思っている。自分の体ぐらい自分で治す。余計なおせっかいを焼くな」
 外科的な手術が必要、というのならとにかく、たかだか微熱が出るだけ、咳が止まらないだけの病気ではないか。王立医療研究所を離れたのは自分の無能を棚に上げた連中のやっかみのせいであり、今も昔もこのイリアジンの才覚には変わりはない。
 むしろ、ファリアという便利な召使を手に入れたことで以前より有益な研究が出来始めたぐらいだ。
 今やっている研究が完成したら、別の名義で例の専門誌にさわりだけ送ってやろう。最近低迷ぶりがひどいあの本の編集者たちは、思わぬご馳走にたちまち喰い付いてくるだろう。
 そんな妄想を楽しみながら、イリアジンは全ての能力を研究に注いでいた。その暁には今度こそファリアに何かしてやってもいいか、使えるようになったしな、などと思いながら。
 だが彼は、自分が絶対に医者にかかろうとはしないだろうことを彼女に見抜かれていることには気付いていなかった。
 それに気付いたのは、いい加減眠るにも飽きてふと夜中に目覚めた時のことだ。
 ベッドの枕元にはいつも飲んでいる茶があった。イリアジンがもうこの味は嫌だ、と言い出すたびにファリアは別の味の茶を何種類か用意して、そのたび彼に選ばせる。
 今夜の茶は二日前に選んだ新しい種類の物だった。柑橘系の香りの付いた、今までに全く興味を示したことのない類いの葉を選んだことにファリアも驚いていた品だ。
 イリアジンはがらりと気分を変えることを期待してその茶に変えたのだが、今現在ちょっと飲んでみるとどうも口に合わない。
 茶自体に味はなく、そういう香りが付いているだけだと頭で知っていても、匂いの印象が強くて非常に甘く感じるのだ。彼は甘いものも大嫌いだった。
 一度そう思ってしまうと元来我慢強い性格ではない。ふらふらしながらベッドを抜け出し、冷たい床に足を付けた。
「ファリア」
 寝ているだろうなと思いながら、イリアジンは彼女の名前を呼ぶ。
「起きろ。あの茶はだめだ、前のに戻せ」
 咳き込みつつも偉そうに言いながら彼は彼女に与えた部屋を覗いたが、そこにファリアの姿はなかった。
 熱にぼんやりしていた頭の一部が冷たく覚醒する。
 前にもこんなことがあった。
「ファリア! ……くそっ」
 長く伏せっていたせいで体がうまく動かない。大声を出した瞬間立ちくらみに襲われながら、彼はよろよろと家中を歩き回った。
 だが探しても探しても彼女は見付からない。
 次第に強くなっていく苛立ちと、動き回ったためかどんどん強くなっていく倦怠感に苦しむ内に彼はふとあることを思い出した。
 一つだけ探していない場所がある。
 それは、地下にある薬品類の保存庫だった。
 ファリアにも何度も言い付けてそこに必要な物を取りに行かせた。だから彼女も行き慣れた場所ではあるが、イリアジンの言い付けなしに行く必要のあるところではない。
 まさかとは思いながら、イリアジンはよろめく足を踏み締めて台所に向かった。元々食料用の貯蔵庫だった場所を改造して薬品の保管場所にしたため、入り口はそこの床にあるのだ。
 ファリアが来て以来虫がわくことのなくなった台所にイリアジンが入ったその瞬間、保存庫のふたが下側から持ち上がった。
「えっ……」
 片手にランプを持ってそこから上がって来たファリアが、主の姿を見付けて硬直する。夜中に突然予想外の人間に出会った、それだけではない驚きがその顔にはあった。
 何かがイリアジンの脳裏でひらめき、彼は彼女に理由を問うこともなくいきなりその側に近寄った。
 腕に抱えられていた薬品を取り上げられた時にはファリアはもう抵抗することもなく、奇妙な安堵の表情をしてじっとその場に立っていた。


 ファリアが去り、口にする物全てを店で作る出来合いの物に戻した途端、イリアジンの病状は呆気なく良くなっていった。
 ひそかに薬学の研究をかじっていたファリアは、保存してあった薬品をこっそり使用して、ある毒薬を作り出していた。通称「死者の友人」と呼ばれる、古来暗殺に用いられて来た粉状の古い毒だ。
 少々苦味はあるが匂いはほとんどなく、通常は味の濃い食べ物に混ぜて使われる。致死量を越える量を一度に摂取すれば無論絶命するが、長期に渡り少しずつ飲ませると微熱と咳にじわじわ体力を奪われるような症状を示しながら相手を殺すことが出来る。
 イリアジンのように普段から不健康な生活をしており、軽い病気を大事にしてしまっても不思議ではない人間に使うならうってつけと言えよう。
 同時に歴史ある古い毒であり過ぎるために、万一変死として扱われることがあっても鑑定結果に出にくいとも推測される。こんな物が今の時代に使われることはめったにないだろうから。
 全く大した女だと、イリアジンは彼女の部屋に残っていた荷物を庭で焼きながら考えた。
「ここから逃げ出したかった」と言い、「あなたの気持ちが欲しかった」とも彼女は言った。
 逃げ出したくて主の毒殺を目論むのはまあ分かるとして、気持ちが欲しい相手を殺そうとする意図がイリアジンには分からない。殺してしまったら気持ちを手に入れることなど永久に叶わなくなるではないか。
 長い時間をかけ、用意周到に計画を進めていたくせに、いざ事が露見した時なんだかほっとしたようだったのもおかしかった。自ら軍警察へ出頭することすら申し出て来たが、それでは事件の全貌を世間に知られることになってしまう。
 召使女に毒殺されそうになった男と呼ばれることになるのだ。あの薬学士のイリアジンが、かつて自分が命を助けた相手に。
 冗談ではなかった。
 そのためイリジアンは彼女にすぐに出て行き、二度と自分に関わらないのならそれで済ませてやるといった。万一ここでのことを誰かに話したりするのなら、殺人罪で軍警察に訴えてやるという条件付きで。
 ファリアは「あなたらしいですね」と一言つぶやき、数日分の着替えだけを手際よく包むと静かな一礼を残して去っていった。
 全く意味不明だ。
 大体気持ちが欲しいとはどういうことだ。
 自分は恩人、彼女はその恩を働いて返そうとする召使。側に置いて使うということが、つまりは気持ちがあったということだろうに。
 まさか好きだの嫌いのだの、具体的な言葉が欲しかったとでも? これだけ長い間側に置いていたのだ、嫌いなはずがないだろうに。
「……訳が分からん」
 灰になっていく彼女の残りの服や、イリアジンの言い付けを細かに書き連ねたメモ帳などを見ながら彼は苦く吐き捨てた。
 無人の家をちらと振り返ってみる。一人に戻っただけのはずなのに、小さな家が妙にがらんとしているような錯覚を覚えた。まだ、彼女の使った毒の効力が残っていたのかもしれない。
 そんなことを思った自分に苛立って、イリアジンはまだ赤みを帯びた灰を靴先でぐりぐりと踏み潰した。

※※※

 あれから十年余り経った。
 この家にイリアジン以外の住人が出来たのは今から一年ほど前のことだ。
 ファリアがいたあの頃に手がけていた研究は完成したが、何となくその気が失せて出版社には送っていない。惰性で購読はしているものの、その雑誌にも眼を通すこと自体がすっかりなくなったある日のことだった。
 ファリア捜索に手を借りて以来、全く縁のなかった軍警察から突然通信管に連絡が入った。
「あなたの娘さんを保護しているので、引き取りに来て頂けませんか」
 軍からの正規な通信であることを示す符丁付きの通信でなければ、即いたずらと判断するところだ。そもそもイリアジンの家にある通信管は公には開かれていないため、公的機関としての特権を持つ軍関係者でもなければ連絡したりは出来ないのだが。
 イリアジンが眉をひそめながら聞き返すと、身に覚えのない娘の名前はファー。ミラディ地方にある、こことはまた別の小さな街の片隅で物乞いをしていたところを保護されたのだそうだ。
「母親はファリア。父親はイリアジンさん、あなただと言っているんですよ」
 イリアジンは怒りに震えながら軍の出先機関に赴いた。
 自分の子供のはずがない。
 なぜならイリアジンとファリアの間には、これまでの業績全部に誓って何もなかったからだ。
 口付け一つどころか、抱き寄せたことも手を握ったこともない。これで子供が出来ていてはたまらない。
 ファリアが去って以来、いつも使っていた店の人間などに「奥さんはどうされたんですか?」と何度も聞かれ、そのたびに怒鳴り付けてやった。よく聞いてみると単に店側がそう思い込んでいただけらしいが、そんな風に見られていたのかと思うと非常に頭に来る。
 馬鹿にしないでもらいたい。このイリアジン、腐っても召使に手を出すほど不自由はしていない。
 むかむかしながらイリアジンが軍警察の面会室で見たのは、野良犬のようにやせて薄汚れた少女だった。
 髪は金髪のようなのだが、こびり付いているのは泥だろうか。そのせいで何とも表現しにくい色になっている。
 年齢は、おそらく七、八歳。十歳にはなっていないという見当は付いた。ということはファリアがイリアジンの元を去ったその後の子だ。
「あなたがイリアジン様ですか?」
 ぱっと声を上げた少女が瞬間放った、妙にイリアジンの瞳にまばゆさを感じさせる気配には覚えがあった。
 父親は自分ではないが、母親はファリアで間違いない。汚れているので顔立ちが今一つはっきりしないが、人相を見分けるのには自信があるのだ。
 そこまで確認し、イリアジンは改めて周囲を見回した。
 ファリアの姿はない。施設の人間たちが遠巻きにしているが、そのいずれにも彼女の面影すらなかった。
「……母親は?」
 低い声でイリアジンが聞くと、担当官が代わってあっさりと答えてくれる。
「病気で死んだそうで。ほら、この人がイリアジンさんだ」
 その、完全にこちらを初対面扱いした物言いにイリアジンはいぶかしげな顔をした。「父親だ」という名目で自分は呼ばれたはずなのだが。
「お前、俺を父親だと言ったんじゃないのか」
「え?」
 ファーはきょとんした顔で担当官を見上げ、首を振った。
「お父さんみたいな人、恩人だって言いました」
 イリアジンが担当官をにらむと彼はにわかに慌てた顔になった。さっきから周りの人間がちらちらこちらを見ていることにもとうに気付いている。
 大体読めた。軍警察の人間たちは、おそらく物乞い少女を付近の住民の依頼により渋々保護したのだろう。
 アバルセスは比較的国力の安定した国ではあるが、孤児を一人一人ご丁寧に軍警察が保護していたら財政がもたない。
 そして孤児の面倒を見る然るべき施設の維持には金がかかる。出来るなら、親戚などの引き取り手を探した方が上部に受けがいい。
 どうせファーの話も適当に聞き流していたのだろうが、イリアジンの名前を聞いて面白いことになりそうだとでも早とちりしたに違いない。うまく押し付けられるならそれに越したことはないと、よく確認もしないで呼び出したのだと思われた。
 安い賭け事の対象にでもなっていたのかと思うと胸糞悪くなる。さっさと踵を返したイリアジンを三十代と思しき担当官が慌てて止めた。
「待って下さいよ! ファリアって人は、確かにあなたの家に昔……」
「あの女は何年も前に出て行った。誤解されているようだが、俺は召使に娼婦の真似ごとまでさせる趣味はない。軍警察官諸君がどうかは知らないがね」
 お得意の台詞を冷ややかに吐き捨て、今にも立ち去ろうとしていたイリアジンの背に「あの」という遠慮がちな声がかかった。
「あの……イリアジン様は、まだ、一人でおうちに住んでらっしゃるんですか?」
 年の割に達者な敬語で言ったのはファーだった。イリアジンは思わず瞳を険しくして少女をにらんだ。
「だったら」
 どうだと言うんだ。まさかお前まで、俺の側にいたいとでも言い出すんじゃないだろうな。
 頭の中に浮かんだ言葉がファリアとの暮らしを次々と思い起こさせる。出会い、順調だった日々、涙、突然の失踪、また順調だった日々。順調に見えていただけの日々。
 そして彼は、あることを思い付いた。
「――母親は、病気で死んだと言ったな。父親もか?」
 するとファーは、微妙に視線を泳がせながらこう言った。
「お父さんは……お母さんと私に、出てけって」
 意外な言葉にイリアジンはちょっと変な顔をしたが、それで別に計画に不都合はない。
 ファーも真っ先に保護者としてイリアジンの名前を挙げた訳ではあるまい。父のことも話はしたのだろうが、彼は引き取りを拒んだ。そのため自分がここに呼ばれたのだろう。
 物乞いにまで身を落とした娘に対してこの仕打ちだ。この少女に何が起ころうが、実の父親が関与することはもうない。
 胸の内で素早く計算しながら、答えの予測は付いている質問を投げかける。
「お前、行く当てはあるのか」
「ありゃ保護されたりしませんよ」
 余計な一言をはさんで来た担当官をイリジアンはにらんでやったが、ファーの表情が曇ったことから見るにそれが正解のようだった。予測通りだ。
 イリアジンは少し、ほんの少しだけ慣れない笑顔を繕って彼女に言った。
「お前の言う通り、俺は今も一人であの家にいる。ファリアに聞いたのか」
 瞬間眼をぱちぱちさせてから、ファーは慌てた様子でこう答えた。
「はい、イリアジン様のこと、色々」
 自分に話しかけられるのがよほど嬉しいのか、今思い出したように汚い顔を両手でごしごしやり始めたファーの瞳を見てイリアジンは冷ややかに笑う。
「お前、俺の言うことが聞けるか。自分の世話ぐらい自分で焼けるか?」
「は、はい、ご飯も作れます、お掃除も出来ます」
 面接でも受けているような少女の受け答えにイリアジンは更に笑う。実際これは面接だった。
 イリアジンは子供も大嫌いだ。最低限身の回りのことぐらい自分で出来るようでなければ、いかに短い期間だろうがとても側に置く気になれない。
「なら、俺が面倒を見てやってもいい」
「本当ですか!?」
 少女の声と担当官の声が同時に響いた。やはり同時に顔を見合わせる二人に咳払いし、イリアジンは改めてこう言う。
「ただし、俺は研究で忙しい。母親に聞いてるかもしれんが人付き合いのいい性格でもない。住む場所を提供してやるぐらいしかする気はないし、もちろん借りはきちんと働いて返してもらうぞ」
 年端もいかない子供に対し、あんまりではないかという顔を担当官はしている。だがファーはそれは嬉しそうにうなずいた。
「はい! 私、がんばります!」
 ぱっと顔全体が輝くような曇りのない笑顔。
 人相学の心得などいらないだろう。この少女は誰が見てもあのファリアの娘だ。
 笑顔を失い出て行った彼女が、イリアジンの知らない誰かとの間に作った娘。 
 ああ、がんばってくれ。イリアジンは心からそう思った。
 がんばればがんばるほどに、お前は早く死ぬことになるだろうと。

※※※

 イリアジンとファーの奇妙な同居生活は、もちろん最初からうまくいくはずがなかった。
 年の割に利発でしゃんとして見えてはいても、ファーはしょせん年端もいかない少女である。大人並みの働きなど出来るはずがなく、その上相手はあの偏屈イリアジン。
 給金は高くなくても彼の持つ名誉目当てに、その心を得ることまでを考えて擦り寄ってきた召使たちを軒並み追い払ってしまった男である。しかもファリアの血縁者である少女に対し、容赦などするはずがなかった。
「どうして日に当たるところに置いたんだ!」
 十年ぶりに家主以外の人間を迎え入れた古めかしい家の中に、今日も家主の怒鳴り声が響き渡る。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 泣きべそをかいたファーは、上から押さえつけるような視線を送ってくるイリアジンの前で両肩をぎゅっとすぼめて震えていた。顔や服にもう泥の汚れこそないが、上下ともにねずみ色の粗末なワンピースにエプロンを付けた彼女の姿はまるっきり下女のそれである。
 現在も多種多様な実験に夢中のイリアジンは、何かの拍子に部屋の外に出る際も実験器具を持って出たりする。本日も書庫に置いてある研究書を取りに行く途中、とある薬品を持って出たのに本だけ持って戻ってしまったのだ。
 書庫の掃除に中に入ったファーは、イリアジンの忘れ物を窓際に退けて空気の入れ替えなどを行った。陽光を浴びた薬品は化学変化を起こし、イリアジンの望む結果を出すことは最早なくなってしまったのだ。
「全くお前は気が利かない。俺の忘れ物だぐらい分かるだろう。部屋に届けてくれればいんだ!」
 かつての同僚たちをも震え上がらせた大声で彼は叫ぶ。気の弱い者は数度イリアジンにこの調子でやられただけで、胃に穴を空け医者にかかる始末だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 ほんの数日前、やはりイリアジンが忘れていった物を彼の部屋に届けた瞬間「勝手に入って来るな」と怒られたファーである。実は先の台詞を言い終わってすぐイリアジンはそのことを思い出したのだが、少女は鼻をすすりながら懸命に涙をこらえて言った。
「ごめんなさい。今度からちゃんと届けます。ごめんなさいイリアジン様」
 ファーもおそらく矛盾した命令に気付いてはいるのだろう。だが逆らわない方が無難だと小賢しく考えている様子はなく、ひたすら必死の謝罪を繰り返すばかり。
 振り上げた拳の下ろしどころにちょっと困ったイリアジンだが、殊勝な彼女の態度を受けてしまっては今更何も言えない。彼はふんと鼻を鳴らし、せいぜい尊大にいいだろうと言ってやっとお小言を中断した。
「それじゃそろそろ食事にしろ。卵料理は焦がすな、分かっているな」
「はい、イリアジン様!」
 ほっとした顔をしてファーは素直にうなずく。従順な少女の態度は母親のファリアの最初の頃のそれに近く思え、懐かしく、そしてどこか忌々しかった。
 一事が万事子の調子だ。イリアジンは二人きりの屋敷の中で暴君であり、気まぐれに態度を変えそのたびファーに涙を浮かべさせた。
 一度イリアジンも彼女が声を殺して台所で泣いているのを目撃している。確かファーが作った食事が気に入らず、一口食べたきり何も言わずに外に食事に出た日のことだった。
「お母さん、お母さん」
 寒々しい台所の床の隅にうずくまり、母を呼びながら声を殺して泣く姿に何も感じなかったと言えば嘘になる。イリアジンもファーがここに来て以来、少なくとも自分の前では父のことも母のことも何一つ口にしないことには気付いていた。
 しかし一方で、こんな風に邪険に扱われているにも関わらず父親のところには戻ろうとしないのだと思い当たると胸がすく思いがした。
 この俺のところで我慢している方がまだましだと、ファーは考えているんだ。
 そんな男をファリアは選び、挙句彼の元を追い出され娘を遺して死んだんだ。
 ファリアが去って以来、彼女の形に空いた胸の空洞にいびつな喜びが満ちていく。イリアジンはファーを無視してさっさと部屋に戻り、翌日からもそれまでと変わりなく少女に接した。

 やがて一月もする頃には、ファーはだいぶこの家での生活に慣れて来たようだった。
 掃除にしろ料理にしろ、完璧とはいかないまでも大方のことはこなす。イリアジンが彼女を叱り付ける頻度は次第に下がっていった。
 元々ファーはよく気の付く聡明な子供だったのだとイリアジンも認めざるを得ない。時には我ながら度が過ぎていると思えるぐらいに厳しく叱り付けても、ファーは泣きはしても決して恨む様子は見せなかった。
 こうしてまず、イリアジンの計画の最初の段階は達成された。
 どうにかファーは自分の役に立つところまで育った。まずは側に置いて目障りでないぐらいにはなってもらわないと困る。
「ほめるところがないと、話が進まないからな」
 深夜の部屋で一人、古びた薬学の本をめくりながらイリアジンは陰湿な笑みに口元を歪めるのだった。

※※※

 一番最初は、ファーが初めてイリアジンの部屋に置かれた薬品棚の整理を任された時だった。
「で、出来ました」
 緊張した様子の彼女の言葉を聞き、近くにある机の上で黙々と書き物をしていたイリアジンは立ち上がる。彼の部屋であるこの場所へ長時間いることもまた、ファーに許されることになったことの一つである。
 古びた木製の、あちこちに薬による怪しい染みのついた大きな薬品棚はイリアジンの最も日常的に使う道具の一つだった。中には開発中の新薬なども収められており、最初のころ彼はファーに決してこれに近付かぬようにと言い付けていた。
 それを今日初めて、ファーに整理を任せてみた。彼女も器具類の片付けならすでに何度も手伝っているし、時折イリアジンがここを整理している様も見ているはず。
 それを見越し、整理整頓を命じるとファーは使命感すら漂わせた顔付きになりやってみます、と答えた。時間をかければまた不興をかうことを知っているファーは、それは真剣な手付きでたくさんのガラス瓶たちを手際よく並べ替えていった。
 少女の奮闘を見ずとも気配で感じていたイリアジンは、黙って整頓された薬品棚を見つめる。ファーの小さな心臓が激しく高鳴っている音すら聞こえるような沈黙がしばし場を支配した。
「がんばったな」
 沈黙を破った一言に、ファーの表情がぱあっと明るくなる。母親譲りの、イリアジンですらまばゆさを感じてしまう笑顔。
「ありがとうございます!」
 心の底から嬉しそうな笑顔につられたように、イリアジンは慣れない笑顔を取り繕った。そうだ、とさも今思い付いたような顔をして、彼はいったん机に戻り重たい引出しを開け始めた。
「イリアジン様?」
 不思議そうな顔をしているファーの前に、イリアジンは小さな入れ物を持って戻って来る。美しいエメラルドグリーンのつぼには木製のさじが突っ込まれていて、彼はふたを開けそのさじで軽く中身をかき回した。
「お前、甘いものが好きだろう」
 好きも嫌いも、ファーの食べ物の好みなどイリアジンは今まで全く聞いたことがない。単に子供は甘い物が好きだろうと勝手に決め付けてしゃべっているのだが、ファーの好みは一般的な子供のそれだったようである。
「はい。好きです」
「そうか」
 うなずくと、イリアジンはさじに絡み付けるようにして取った水飴の糸をくるくると巻いてこう言った。
「ごほうびだ。口を開けてみろ」
 言われるままに開かれたファーの唇に、イリアジンはさじを差し入れてやる。ねばつく飴にかすかに歯を立て、うまくさじから外してしまったファーは口をもぐもぐさせながら幸せそうに笑った。
「甘い……おいしいです」
「そうだろうな」
 甘い物が大嫌いなイリアジンにその感覚は理解できないものだったが、とりあえずファーは掛け値なしに喜んでいる様子だ。それを確認し、内心ほくそえみながら言ってやる。
「お前も最近ようやくこの家での暮らしが身に付いて来たようだ。これからも一生懸命働くんだぞ。今日のようにうまくやれたら、またごほうびをやろう」
 ファーは粘つく飴をうまく飲み込めないのか、まだ口をもぐもぐさせながらもとても嬉しそうに笑った。
「はい、ありがとうございます。お役に立てるようにもっとがんばります、イリアジン様!」
 過酷な仕事に疲れの色が濃い頬に光が満ちる。イリアジンが甘いものが嫌いなのと食が細いのに付き合わされ、ここに来てからファーには間食など全く与えられていない。まだ幼い年齢である少女にとって、甘いおやつは何よりありがたいごほうびだろう。
 だからファーは褒められるために今よりもっとがんばるだろう。野ネズミのようにくるくると、小さな体を忙しなく動かして働くだろう。
 母親のように。
 恩人である自分を裏切り、毒殺しようとしたファリアのように。


 矢のように過ぎていく日々の中、イリアジンは時折ファーの仕事振りを褒め彼女にごほうびの水飴を与える。
 ファーはそのたび瞳を輝かせて感謝の言葉を述べ、嬉しそうに木のさじをくわえ、にこにこと無邪気に笑っていた。
 イリアジンの役に立とう。彼に日々を気持ちよく過ごしてもらおう。一々そうと言葉にしなくても、その働きぶりで彼女の思いは明らかだった。
 イリアジンもまた、純粋にファーの努力だけは高く評価していた。
 骨身を惜しまぬ働きぶりは、行く当てのないところを拾ってやったのだからもちろんだ。
 だがそれでもここまで懸命になれる人間は大人でもまれだろう。彼が子供を嫌うのは、子供が大人に依存して生きているくせにわがままで甘ったれているからだが、少なくともファーはわがままでも甘ったれでもなかった。
 しかし二人が出会った春がまだ終わらぬ内に、働き者の少女は体調を崩しベッドの住人になってしまう。
 かつてのイリアジンと同じように。

※※※

 その昔はファリアが使っていた、使用人用の手狭な部屋は粗末ながら頑丈なベッドだけでいっぱいになっているような印象を受ける。そこに横たわる金髪の少女は、イリアジンが室内に入って来たことに気付き、病にくたびれた頬をゆるませた。
「イリアジン様……」
 声を出すだけで精一杯なのだろう。か細い呼び声にイリアジンは特に表情を動かさないまま、カーテンを閉め切られた薄暗い部屋の中を移動してファーの顔を覗き込んだ。
「薬の時間だ。飲めるか?」
「……はい」
 ちらっと辛そうな顔をしたファーだが、のろのろと体を起こしイリアジンの差し出した紙包みを受け取る。続いて枕元に置いてあった水差しを手にした彼女は、苦くてまずい紙包みの中の薬を一息に喉に流し込んだ。
「……うえっ、ごほ、ごほっ」
 味がまずいのはもちろん、粉薬を飲み込むのが弱った喉にはきついらしい。最近のファーは一日二度の薬のたびに激しく咳きこむ。無言のイリアジンがそっと背をさすってやると、少女は恐縮した顔をして言った。
「ごめんなさい、イリアジン様。私、迷惑かけてばかりなのに……」
 やせ細った、これ以上小さくしようがないような体をもっと小さく縮めてファーは謝罪する。
「気にしないでいい。お前は俺が引き取ったんだ。早く体を治して、また前のように働いてもらわないとな」
 だいぶ慣れて来た作り笑顔にファーは弱々しく笑い返す。さすがに以前までのまばゆさは薄れたその笑みを観察しつつ、イリアジンは白衣のポケットに突っ込んでいた例のエメラルドグリーンのつぼを取り出した。
「まずい薬をよく飲めたな。さあ、口を開けてみろ」
「はい」
 弱々しかった笑顔にほんの少しだけ力が戻る。艶を失いかけている唇を開いた少女に、イリアジンは最近ほぼ毎日与えている水飴を差し入れてやった。
「おいしい……」
 幸せそうに、ファーは言った。とうとう自力ではベッドから出ることも出来なくなってしまった少女が、幸福そうにするのはこの時だけである。
 イリアジンもそれを聞いて笑った。作り笑顔ではない、純粋に彼の胸の内からわき起こる邪悪な笑みの一部が漏れ出したのだ。
 馬鹿な子供だ。
 ありがたがって食べているその飴の中に、何が混ざっているのか今すぐ教えてやりたいぐらいだ。
 だがそれはしない。お前には何も教えない。
 間抜けにもだまされかけていた俺のように、己で真実を掴むことだ。最もそれが出来るなどとは到底思えないが。
「さあ、もう休めファー。ぐっすり休んで、今は体を治すことだけ考えろ。食事はまた運んで来てやる」
 声高らかに笑い出したいのをこらえ、形ばかりの優しさで言うイリアジンにファーは大きな瞳を潤ませた。
「ごめんなさいイリアジン様。早く治って、いっぱいご恩返しします。待ってて下さいね……」
 何とかそこまで言い終えてから、彼女は力尽きたように咳き込み始めてしまう。
「ああ。楽しみにしている」
 笑ってイリアジンは彼女の頭と背中をなで、布団の中に押し込んだ。はた目には病気の娘を気遣う優しい父親のしぐさにしか見えないだろう。
 そのまま部屋の外に出て行く間際、またファーが「ごめんなさい」とつぶやく声が聞こえたがもう気にしない。彼は廊下に出るなり、口元を押さえ笑い転げそうになるのを抑えるのに必死だった。


 ファリアが作成し、イリアジンに盛った毒薬「死者の友人」は作成自体はそれほど難しいものではない。
 素人のファリアですら本を見ながら作れたのだ。イリアジンは彼女が作ったものの残りは他の荷物と同じように火で焼いてしまったが、自分で同じ毒を作るのはたやすいことだった。
「焼かずにあれだけ残しておけば良かったな」
 真夜中の私室で一人、おそらくファリアも参考にしたと思われる古い薬学書の頁をめくりながらイリアジンは機嫌よく独りごちた。
「母親が作った毒そのものを娘に盛れば、もっと面白かっただろうに」
 くすくす笑いながら、鼻歌さえ歌い出しかねないような表情で彼はなおもつぶやく。
 ファーに与えるためにと、これもイリアジンが作成した水飴には、ごく微量ながら「死者の友人」が仕込んであった。
 元々少しずつ服用させる用途のものだが、飲ませる相手が幼い少女だ。下手をすれば一瞬で絶命させてしまう。
 最終的には彼女は死ぬだろうが、それは自分の本意ではない。ファリアがイリアジンにしたのと同じように、少しずつ少しずつ殺していくつもりなのだから。よって彼は慎重な動物実験を繰り返し、最終的には自分の体まで使い濃度を調整していった。
 甘いもの嫌いのイリアジンにとって、毒薬まで入っている水飴を何度も舐めるのは非常に不愉快な作業だった。だがこれも後の悦楽のため。我ながらよく出来た復讐の脚本を見事完結させるための最重要な小道具なのだ、手は抜けない。
 まずファーを引き取り、以前のファリアのように召使として使いものになるまでにする。
 次に彼女の仕事ぶりを褒め、そのたび毒入りのごほうびを与える。
 がんばればがんばるほどファーの肉体は毒に蝕まれていく。いずれはかつての自分と同じように床に伏せり、微熱にうなされる羽目になるだろう。
 ただ一つ前と違うのは、今度こそ毒殺は成功するということ。
 そう遠くない未来にあの少女は死ぬ。間接的にだが、己の母が生み出した毒を飲み続けて死ぬ。
 そう思うと愉快でたまらなかったが、ある日伏せっていたはずのファーが廊下の拭き掃除をしているところに遭遇した時はびっくりした。
「何をしている!」
 驚いたイリアジンに、ファーは雑巾を握り締めたまま中途半端な笑顔を作ってみせる。
「今日はちょっとだけ、調子がいいんです。今の内に……」
「馬鹿言うな! さっさと部屋に戻れ」
 ぐいと引いたその腕の、骨をそのまま掴んでいるような感触にイリアジンは動きを止めた。
 子供嫌いの彼は子供の患者ともろくに触れ合ったことがない。だがそのわずかな経験に照らしても、ファーの腕はあまりにも細かった。
「……お前、こんなに細かったか」
 普段だぶついた、体格に合わない……要するに適当に選んで買った服ばかり着せているためよく分からなかったのだ。
 薬を飲ませて看病していると言っても、悪い部位など分かりきっている。イリアジンはまともにファーの体を見たことがなかった。
 まともに話を聞いたこともなかった。出来ませんと一言ファーが言えば、その何十倍もの罵倒を浴びせ、言いつけを完遂するまで許さなかった。
「ちょっとやせたかもしれません……ごめんなさい、勝手に部屋を出て」
 イリアジンが腕を掴んだままなので、ファーは何となく恥ずかしそうにしている。それに気付いた彼は渋い顔をしてさっさと部屋に戻るよう言い付けたが、もろい骨の感触は自室に戻ってなお手の中に残っていた。
 あの腕で、あの荷物を運んだのか。
 あの腕で、あの棚を動かしたのか。
 今更のようなことが脳裏を過ぎったが、ファーはファリアの代わりだ。あいつだって細かった、俺だって細すぎるぐらいだなどと埒もない言葉をその上に被せ、間もなく彼はそれ以上考えるのをやめた。

※※※

 夏が来るのとほぼ同時にファーは最早手の付けられない状態になった。
 上がりきらず下がりもせぬ微熱は彼女の体に留まり続け、時間の感覚を失わせ意識を混濁させていく。母親譲りの笑顔どころか、いつも半分眠っているような顔には表情らしい表情がない。
「ファー、見えるか」
 虚ろに開いた両眼の上で手を振ってやると、眼球は動く。だがそれはもうただの条件反射であり、イリアジンが側に来ても気付かないようなことが増えた。
 それでも、うまく口を開けられないためにへらのような器具を使って薬を飲ませた後、水飴を口に含ませてやると少女は微笑んだ。弛緩した肉をわずかに震わせ、目元だけで。
「イリアジン様ありがとう」
 何かの拍子にふと加減が良くなると、しゃがれた声でそんな礼を述べる。そのたびイリアジンはぱさぱさになった金の髪を優しくなで、同時に痛々しいほどに白い顔を研究者の冷徹さで計測する。
 後一月もてばいい方だ。
 冷たい計算により彼はそう思っていたが、数日後咳き込みながら薬を飲み終えたファーは、続いていつものつぼを取り出そうとしたイリアジンにこう言った。
「もう飴は、いりません」
 イリアジンはぎくりとして、思わずファーの顔を見た。引かない熱にかさついた肌の中、落ち窪んだ瞳に弱々しい笑みを浮かべ少女は言った。
「私、お薬もらってるのに、ちっとも治らないんだもの……悪い子です。ごほうびなんて、もらえません……」
「……何を言うんだ」
 内心の動揺を抑えてイリアジンは応じる。まさか自分がやろうとしていることに気付いているとは思えないが、ここでおかしな態度を取ってしまうわけにはいかない。
「お前は、がんばってるじゃないか。まずい薬を飲んで、一日寝ているだけ。なのに文句も言わず、病気と戦っているじゃないか」
 ごまかそうとするあまり、自分の言葉とは思えぬような台詞が次々と唇から出て来た。しかも案外その言葉が本気であることに本人が驚いてしまった。
 だが普段のイリアジンの態度を見ていれば、とても本気だとは思えない。かつての同僚たち辺りなら一体何の裏があるかと身構えるところだが、ファーの取った態度は違っていた。
 身の内にじくじくと溜まった熱のためではなく、少女の瞳は淡く潤んでいる。感謝に濡れたその輝きに、母親譲りのまばゆい笑顔以上の吸引力を一瞬イリアジンは感じた。
「イリアジン様ごめんなさい。お母さん」
 言いかけて、ファーはしまった、という顔になる。イリアジンも頬が歪むのを感じたが、ファーはもう取り消せないと思ったのだろう。おずおずと、こう続けた。
「……お母さん、言ってました。イリアジン様は、頭が良くて、本当はとっても優しい人だって……私、おうちに置いてもらってるのに、イリアジン様にしてもらってばっかり…」
 語尾に、けほけほとか細い咳が木枯らしのような音を立てて絡み付く。夏に向かおうとしている季節の中、ファー一人だけが取り残されているようだ。
「ごめんなさいイリアジン様……私……早く、治ります……」
 長くしゃべって疲れたのだろう。その後彼女は布団に溶け込むように眠ってしまい、イリアジンもこの日だけはファーに水飴を与えなかった。
 だが次の日には無言でつぼを取り出して、彼女にいつものようにごほうびを与えた。
 ファーはもう拒まなかった。気遣いに感謝する眼をしてイリアジンを見上げ、口の中で溶ける飴の甘味に「おいひい」ともつれる舌でつぶやく。
 次第に会話が困難になっていくファーの容体を看ながら、イリアジンも薬の投与をやめなかった。熱にうなされる少女の声が聞こえるような気がして、夜中にふと起きてしまうことが続いても、それまでと同じ日常を繰り返した。


 終わりの日はよく晴れた、部屋の中にいるのが馬鹿馬鹿しくなるようなこの上もない青天。
 いつものようにファーの部屋に薬と毒を与えるためにやって来たイリアジンは、ファーが自分を見て笑ったことに気付いた。それだけでなく、彼女は首を回して近寄って来たイリアジンを見上げさえした。
「イリアジン様、いつもありがとう」
 これだけ明瞭なしゃべり方は最近ついぞ聞かなかったものだ。それを聞き、イリアジンは瞬間的に悟った。
 まるで全てが嘘だったような突然の回復。
 それが末期患者に時折与えられる最期の慈悲だと、医療関係者である彼は知っている。
「イリアジン様、ごめんなさい。私、もうだめみたい」
 だがこの言葉には彼も驚いた。思わず馬鹿を言うな、と言ってしまったがファーはゆるりと首を振る。
「今日はね、不思議に気分がいいの。お母さんが死ぬすぐ前もそうだった。だから多分、私ももうだめ」
 ファリアもこんな風に。
 考えてしまった自分が許せず、イリアジンは殊更芝居がかった口調で言う。
「馬鹿なことを言うな。俺を誰だと思ってる? 薬学士のイリアジンと言えば帝都ではちょっとしたものだった。お前の体は必ず俺が治してやる」
 我ながら白々しい、というような台詞にファーは例の水飴を与えられた時のように幸せそうに微笑んだ。閉め切られたカーテンがゆらゆらと風に揺れるたび、気付けばイリアジンよりもやせてしまった少女の上に不規則な影が踊る。
 わずかな間、ファーはカーテンの隙間から覗く抜けるような青空をイリアジンの体越しに見つめた。母親のファリア同様、屋敷の外に出ることをほぼ全面的に禁止されていた少女は、特に病に伏せってからというもの一度もまともに太陽を浴びていない。
 だが彼女はすぐにその瞳を閉じると、急にこんな話しを始めた。
「お母さん、イリアジン様のこと大好きだった」
「お母さん」にも「大好き」にもイリアジンはぴくっと眉を跳ねさせた。
「何回もイリアジン様のお話を聞きました。お母さんの命の恩人で、イリアジン様が助けて下さらなかったら私も生まれて来なかったって……」
 初めて聞く、ファリアのここを出て行ったその後。我知らず食い入るようにファーを見つめるイリアジンを知ってか知らずか、少女は眼を閉じたまま言った。
「でもお母さん、イリアジン様にひどいことをしちゃったって言ってました。好きで、大好きで、どうしても振り向いて欲しかったって。けどすごく後悔してるって。何度謝っても足りないぐらい、すごくすごく後悔してるって」
「ここから逃げ出したかった」とファリアは言った。
「あなたの気持ちが欲しかった」とも彼女は言った。
 瞳を見開き、動けずにいるイリアジンの前でファーの眼が再び開かれる。少女は今度は窓を見ず、イリアジンだけを見て悲しそうに笑った。
 だが次の瞬間その唇から流れた声は、まるで言葉を覚えたての幼児のそれだった。彼女に与えられた最期の慈悲が尽きかけていることをイリアジンは知った。
「おとうさんも、イリアジンさまのこと、なんどもきいてたの。おとうさん、おこってた。おかあさんがなんどもイリアジンさまのおはなし、するから」
 ファリアとファーを家から追い出し、妻を病死させ娘を物乞いにした男。
 彼の名前すらいまだイリアジンは知らないけれど、彼の方はイリアジンのことをよく知っている。聞かされている。不必要なまでに。
「おとうさん、おかあさん、すきだった。でも、すきすぎて、これいじょういっしょにいられないって。おかあさんはわたしをつれておうちをでたの。おとうさん、かわいそうだから」
 かわいそうな男。
 かわいそうな女。
 かわいそうな二人の娘。
「イリアジン様に、あったら、ね。いっぱい、お母さんの分も、ご恩返ししなさいって言われてました。厳しくて、とっても冷たく見えるけど、本当は優しいって……私も、そう思います」
 一瞬ファーの発音がまた明瞭になった。焦点のぼけかけていた瞳に最期の光が灯り、それは見る間に失われていく。
「役に立てなくてごめんなさい。水飴、ありがとう。すごく、すごく、おいしかった……」
 風が吹いて、またカーテンが揺れた。もう動かない少女の上で影は踊り続けている。
 イリアジンは無言で手を伸ばし、ファーの瞳を閉じさせた。青空に背を向けて生きた男の薄汚れた白衣の上でも、同じように影は踊り続けていた。

※※※

 ファーがいなくなったことに、イリアジンの家の近所に住む人々は何となく気付いていた。
 見慣れぬ金髪の少女が彼の召使のようにこき使われていることを、田舎の邪気なく詮索好きな人々はいつしか知っていた。彼らはひそひそとささやき合い、とうとう逃げただの、いや親が連れ戻しに来ただのと噂したが、家主本人に面と向かって聞く度胸がある者はいない。
 唯一の例外は、近所の店に勤める男だった。以前ファリアをイリアジンの妻と間違えていた男だ。
 ファーが伏せって以来、店への注文は以前通りイリアジンが行っていた。その日もいつものように簡潔に必要な商品だけを告げたのだが、すぐには通信機が切れない。不審に思っていると、向こうからこんな質問が聞こえて来た。
「……ファーちゃんは、もう、そこにはいないんですか」
 イリアジンはすぐには答えなかった。すると、うつむき眼を伏せた様が見えるような声がこう言うのが更に聞こえた。
「あの子は俺に、あなたの好みを教えてくれと言いました。あなたの役に立ちたいと……俺があなたの悪口を言うと、そんなことを言うなと怒った」
 その昔、ファリアがイリアジンの家にいたころ、男は声の調子からして彼女と同い年ぐらいだった。現在の彼はファーぐらいの娘がいてもおかしくない年だろう。
 多分こいつはファリアに惚れていた。
 イリアジンはそれに気付いていて、けれど彼にもファリアにも何も言わなかった。
「真夜中でも、日も昇っていないような時間でも、あの子はあなたの言い付けに従って俺に商品の注文を頼んで来た。ファーちゃん、ひどい咳をしていましたよね。どうなったんですか」
 イリアジンは無言で通信を切った。客に対する暴言へ文句を付けることはしなかったが、男がイリアジンの注文を受け付けることは二度となかった。風の噂に、店を辞めたと後で聞いた。

※※※

 秋の訪れが笛のように響く風の音色に感じられる中、イリアジンは軍警察に聞いたおおまかな情報を頼りに、とある貧しい地方都市を訪れていた。 
 住民全てが知り合いのような、イリアジンの現在の住まいがある場所と同程度の田舎だ。違うのはミラディよりも北部に当たる地域のために、付近の山の頂上にすでにうっすら雪が積もっていることぐらいだろうか。
 とにかくラディアン、という名前を出して尋ねると、目当ての家はすぐに知れた。ついでに聞いていない情報までも、ご丁寧に教えてもらえた。
「女房と子供を追い出して、昼間から酒浸りだよ。働き者の気のいい男だったのに、酒は怖いねえ。人格を変えちまう」
 そんな奴に一体何の用だと言いたげな中年男に別れを告げて、イリアジンが辿り着いたのは荒んだ一軒家だった。年季の入った赤煉瓦造りの外装は品が良いとも言えるのに、家の周り中ごみだらけ。多くは酒瓶だが、腐った食べ物の匂いもひどい。
 アルコールと腐敗臭の入り混じった、最悪の空気をかき分けて扉を叩くが返答がない。試しに軽く押してみると、それは呆気なく開いた。
 しばしの逡巡の後、イリアジンは家の中に足を踏み入れる。そこら中に転がった酒瓶の破片に気を付けながら歩を進めていくと、間もなく獣のうなり声のようなものが聞こえた。
「なんだ、てめぇ。金ならねえぜぇ」
 泥酔状態にあると明らかな、赤黒い顔に酒の臭気をまとわり付かせた体格のいい男が家の奥から姿を見せた。ひどい生活のためだろう、人相が変わってしまっているようだがイリアジンには彼が誰かすぐ分かった。
「お前がファーの父親か」
 言われて、わずかな間を置いた後、その娘へと受け継がれた金髪を男はぐしゃぐしゃとかきむしる。アルコールに拡散していた意識が急速に一つにまとまったようだった。
「お前……そう……お前か。お前、イリアジンか!」
 ファーの父、ラディアンもまた侵入者の正体にすぐに勘付いたらしい。あっと思う暇もなく彼は掴みかかって来ると、腕のいい大工だったとの話に相応しい腕力でたちまちイリアジンを壁際に押さえ付けた。
 酒臭い息が吹きかけられる。ラディアンの荒んだ、しかし間違いなくファーと血縁関係にある顔がイリアジンのすぐ側に近付けられた。
「ようよう、何だよ、色男よぅ。俺の女房はお前に夢中だ。嬉しいか、よぅ」
 身長こそイリアジンに劣るラディアンだが、相手の首根っこを押さえつける片腕にはまだ衰えていない筋肉が盛り上がっている。苦しみながら、イリアジンはうめくように言った。
「ファリアは、死んだ……ファーも……お前、二人の死体を引き取る気はないと、言ったそうだな……」
 彼女たちの死は両方とも、一応は夫であり父であるラディアンにも告げられているはずである。だがラディアンはどちらの連絡にも酒臭い息を吐くばかり。この家から出て来る様子は見せなかったそうだった。
「ああ、そうさ。だって俺は名ばかりの夫だからなぁ!」
 叫びながら、ラディアンはぱっと腕を離す。いきなり解放されたイリアジンは盛大にむせ返るが、ラディアンは両手を広げ、くるくると危なっかしい足取りで回りながら歌うように言い始めた。
「へへぇ、あんた、聞いたぜぇ。お偉い医者なんだってなぁ。俺の女房の命救ったってなぁ。へへ。あいつ、あんたに惚れてたんだ」
 くるくる回る足がもつれる。どうにか酒瓶の破片は避けたものの、ラディアンはどたりとその場に座り込み、何がおかしいのかげらげら笑い始めた。
「ひひ、ひ、俺、俺はあいつだけに惚れてたんだ! ふらっとここに流れて来て、友達も作らずいつも寂しそうでさぁ、何とかしてやりたいって思ってたんだぁ」
 イリアジンに毒を盛り、彼の元を去ったファリアにはイリアジンの知る明るくまぶしい笑顔の持ち主の印象は全くなかったという。いつも物思いにふけっているような憂いを帯びた瞳をしていて、笑うこともしゃべることもほとんどしなかったということだった。
 そこに、陽気と生気の塊のようだったラディアンは逆に惹き付けられたのだろう。熱心にかき口説き、ついには夫婦になった。すぐに彼らの間には可愛い娘が生まれ、絵に描いたような幸せな家族だったとイリアジンは聞いて来ていた。
 今その一員だったはずのラディアンは酒と腐敗臭の中にうずくまり、赤く充血した眼を見開いて恋敵を責め立てる。ごみためと化した家の中には、彼が築いたはずの幸福な家庭の残り香はどこにもなかった。
「なのに、なのによう。結婚して、ファーまで出来たのに、あいつはあんたの話ばかりする。ファーにもあんたの話ばかりするんだ!」
 突然イリアジンの足にラディアンの腕が触れた。引き倒す気かと思ったがそうではなかった。彼はイリアジンの足にすがり、今度はぼろぼろと涙を零し始めたのだ。
「なあ、ファーはあんたの子じゃねえよ。俺はあんたほど頭良くないけど、それぐらい分かる。でも、だけど、じゃあ何でだめだ。俺たち好き合って夫婦になったんじゃねえのかよ!」
 みじめな、だからこそ真摯な繰言をイリアジンは黙して聞いている。
「あんたどんだけの男なんだ。なんでファリアはあんたを好きなんだよぅ」
 泣きながら、ラディアンはなおもイリアジンに取りすがる。涙と鼻水をべたべたとなすり付けられるに任せ、彼はじっと泣きじゃくる男を見つめていた。
 どれぐらいそうしていただろうか。涙と共に酒精を放出したらしいラディアンは、突然立ち上がって大声でこう叫んだ。
「出ていけ。出ていけ出ていけ出ていけ! ここは俺の家だッ、俺の家族のために建てたんだ! 家族以外は入れない!」
 非常な勢いでぐいぐい胸を押され、イリアジンは逆らう暇もなく後ろ向きのまま玄関先へと突き飛ばされる。生臭い汁の飛び散った石畳に倒された彼は、沈黙したまま服の裾を払って立ち上がった。
 すぐに大きな音を立てて閉じられた扉の奥から、すすり泣く音が聞こえ始める。その音がいつまでも付いて来るように感じながら、イリアジンは幸せだった家族の家から立ち去った。


 再びイリアジンがラディアンの名を聞いたのは、ある冬の日に不幸な死亡事故の主役としてだった。
 つけが溜まって近くの店では酒を売ってもらえなくなったラディアンは、かなり遠くの町まで買出しに出たらしい。大雪の中を酔っ払って歩き始め、そのまま死の国まで辿り着いてしまった。雪に抱かれたその顔は、心なしか幸せそうだったとも発見者は語る。
 余計なお世話かもしれませんが、と恐る恐る語った軍警察の担当官は、以前イリアジンに請われるままにラディアンの名とその住所を教えてくれた男である。イリアジンは短く礼を述べたが、ラディアンの葬式には参加しなかった。ただ、もしも彼の両親が許すなら、一度共同墓地に入れたファリアとファーをラディアンの墓に入れてやって欲しいとだけ告げた。
 ラディアンの顔を一目見た時から、彼が長くはないだろうことは長年の経験から分かっていた。
 けれどラディアンにそうとは言えなかった。なぜなら「お偉い医者」の自分などより、彼自身がそのことを一番よく分かっていたはずだから。
 雪の中酒を買いに出て行ったというのも、状況からそう判断されているだけだろう。ラディアンが何を思い寒空の下を歩いたかは、もういない彼だけしか知らないことだ。
 幸福だったはずの一家はこうして全員亡くなった。
 イリアジンだけが十数年前と同じように、独りこの屋敷に住んでいる。
 その夜イリアジンは酒を飲んだ。体を壊すだけ、こんなものに逃げるなんてどうかしていると馬鹿にし続けていた酒を浴びるほど飲んだ。
 飲んで飲んで飲み尽くし、一人きりの薄暗い屋敷の中でめちゃくちゃに暴れた後、彼は自室のベッドに突っ伏して腹の中のものを全て吐いた。ラディアンの家に漂っていたのと似たような臭気に包まれた状態のまま、ぼんやりと開いた瞳に鈍く光るものが映る。
 エメラルドグリーンの美しい入れ物。
 ファーを殺した後、記念碑にするつもりで彼は毒薬の入れ物にこのような物を選んだ。それはほこりにまみれながらも、荒れ果てた部屋の中でささやかな奇跡のように輝いていた。

※※※

 節くれた長い指先が、横たわる老婆の胸元にそっと毛布をかけ直すのを中年の女性は息を詰めて見守っていた。
「もう、大丈夫。お婆さんは助かりますよ」
 薄汚れた白衣に身を包んだ、痩せぎすの壮年の男がそう言って笑う。一度はもうだめかもしれない、と小さな町唯一の医者には宣告された老婆は、彼が直した毛布の下ですうすうと安らかな寝息を立てていた。
「ありがとうございます、イリアジン様。あなたが来て下さって本当に良かった」
 瞳を潤ませ、イリアジンに取りすがらんばかりにして礼を言う老婆の娘に彼は黙って微笑んだ。旅の苦労のせいか、年齢と比較しても白髪の多い黒髪がかすかに揺れる。
「いえ、感謝して頂く必要はありません。お礼を言うのはこちらの方だ。苦しむ人々を救うことこそが、この俺をもまた救ってくれるのですから」
 何ときざで偽善的な台詞だろう。だがこのイリアジンという男が言うのなら、信じられると彼女は思った。
 医者の少ない地域を旅して回りながら、行く先々で苦しむ人々を救う聖人。時には他の医療関係者がさじを投げたような患者にも果敢に取り組む、存在自体が一つの奇跡のような人物。
 噂では名のある名医ではないかとも言われている。帝都の方で同じ名を聞いたことがある、とも近所の誰かが言っていたが、まさか帝都の医者がこんなところに来てくれるはずがない。
「もっとこちらにいられるのですか?」
 思わず彼女が言うと、イリアジンは困ったように笑った。
「そう言って下さるのはありがたいですが、世の中にはもっと多くの苦しんでいる人たちがいます。彼らを救わなければなりません」
 まるでそれが義務であるかのように言った彼はふと口元に手をやった。顔を背け、ごほごほと咳きこみ始めるのを見て女は慌てた顔をする。
「イリアジン様、夜も遅いですしどうぞ今夜だけでも泊まって行って下さい。ずっとそんな風な咳をされているじゃないですか」
 イリアジンという男、医者の癖に下手をすると自分が看ている病人よりも顔色が悪かったりするのである。それでいて平気で患者を徹夜で看病したりするのだから、患者の家族がはらはらさせられることは多かった。
「……そうですね。それでは一晩だけ、お言葉に甘えて。お婆さんの容体を看がてらお世話になることにしましょう」
 まだ働く気らしい彼に女は半ば呆れたように笑った。
「そうして下さい。待っていて下さいな、今から寝床を用意しますから」
 この人をここで殺したらあたしが恨まれるよ、と心の中で微苦笑しながら彼女は部屋を出て行く。何がなんでも彼には一人でゆっくり休んでもらわなければ、と決意して。
 取り残されたイリアジンは白衣のポケットに手を突っ込み、中からエメラルドグリーンのきれいなつぼを取り出した。気付けばかなりの年代物になったそれだが、ていねいに磨かれ続けているため、いつまでも変わらず美しい輝きを放っている。
「それ何?」
 幼い声に、驚く。いつここへやって来たのか、それともどこかから様子をうかがってでもいたのか。丸々とよく太ったこの家の息子が、イリアジンの手にあるつぼを珍しそうに見ていた。
 この少年はいくつぐらいだろう。体は大きいが顔付きもしぐさもまるっきり子供だ。
 十、十一、それぐらいだろうか。祖母の病気のことよりも珍しい旅人とその持ち物に気を取られているらしく、丸い眼はきらきらと輝いていた。
 これぐらいの年の子供を見る時、イリアジンの瞳はいつも悲しい色を帯びる。だが少年は自分の好奇心を満たすことに夢中でそれに気付く様子はなかった。
「……自分へのごほうびさ。いいことをした後にだけ、食べることが出来るんだ」
 そう言って、イリアジンはゆっくりとつぼの蓋を開ける。中に突っ込んであった木のさじを掴み、軽くかき回して、とろりと粘る金色の飴をそれに絡み付かせた。
 かすかに漂う甘い匂いと、まるで神聖な儀式のように水飴を口に運ぶ様を少年は凝視している。彼は半ば眼を閉じ、大切そうに口の中のものを咀嚼しているイリアジンにそろそろと近付いていった。
「俺にもちょうだい!」
 一瞬のことだった。子供ならではの情け容赦のない力でつぼをもぎ取った彼は、部屋の隅に逃げていきながら蓋を開けてしまう。
「やめないか!」
 顔色を変えてイリアジンは怒鳴ったが、少年は彼の怒りこそがこのつぼの価値と思ったらしい。
 意外に軽快なしぐさでイリアジンの追撃を避け、中の木さじを掴み上げる。欲張りにもかなり大量に中身をすくうと、嬉々とした表情でそれを口の中に入れた。
「何ごとですか!?」
 ちょうど寝台を整えて戻ってきた彼の母親が、折しも少年の手からつぼを取り上げたイリアジンの姿を見つけ眼を丸くする。イリアジンは彼女のことなどお構いなしに、少年の頬肉を掴み口を開かせた。
「飲むんじゃない! 吐き出せ!」
 激しい声で一喝され、げえ、という情けない音を出し少年は口の中のものを吐き出した。ごほごほ言っている彼の表情を素早く観察したイリアジンは、険しい声で「大丈夫か」と聞く。
「だい……じょ、ぶ……け、けど、おじさん、それ、何?」
 少年はむしろイリアジンを責めるような顔をしてこう言った。
「すっげ、まずい……おじさん、えらい人なんだろ? 母ちゃんの料理、もっと食べていきなよ……そんなの、わざわざ食べなくたって……」
 心底嫌そうな顔をしている少年の頭上に影が落ちる。怒りの形相になった彼の母親が、固めた拳骨をその頭に打ち下ろした。
「この馬鹿! 全く、人様の食べ物に手を出すんじゃないって何度も言っただろうが! おまけにこの人はばあちゃんの命の恩人なんだよ!」
 かんかんになって怒る母親に、口答えの気配を見せた少年はまた殴られた。泣きべそをかき始めた少年とその母をイリアジンは慌てて止める。
「いや、どうぞ、お気になさらず。子供が好奇心旺盛なのは仕方がない。珍しいものに見えたのでしょう」
「本当にすいません、イリアジン様……後できつく言って聞かせますから」
 しゅんとなる母親から、イリアジンはやはりしゅんとしている少年に眼を移した。悲しそうな笑みを浮かべて彼は問う。
「それより、教えてくれないか。これはそんなにまずかった?」
「まずいって言うか、ほとんど味なかったよ。匂いはすごく甘そうだったのに……」
 よほど期待外れだったのだろう。まだ不満げな少年は、言い終えてから改めて母親の眼を気にし始めた。
 案の定彼女はすごい目付きで少年をにらんでいるが、イリアジンは二人のことなど忘れてしまっているかのようにぽつりと独りごちた。
「……そうか。俺が口に出来る甘さに合わせたんだものな。子供には、これはそんなにまずいものだったのか」
 意味の分からない独り言に親子は不思議そうにする。人相学の心得など要らぬほど、そっくり同じ彼らの顔を見てイリアジンはわずかに口元に笑みを浮かべた。
 しかしその笑みは、再び漏れ出た細かな咳にかき消されてしまう。母親ははっとした顔になり、手癖の悪い息子に自分の汚した床の掃除を言い付け、イリアジンを別室へと案内していった。

終わり

小説家。「死神姫の再婚」でデビュー以降、主に少女向けエンタメ作品を執筆していますが、割となんでも読むしなんでも書きます。RPGが好き。お仕事の依頼などありましたらonogami★(★を@に変換してね)gmail.comにご連絡ください。