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可能性は現実を凌駕する

ある種の人たちにとって、可能性はもはや実現するあらゆる未来よりも重要だ。


資本主義の子どもたちとは、物心ついた頃から「自己満足よりも他人を説得する普遍性のほうが強い」という力学を理解している人間たちのことであり、言ってみれば客観性におけるネイティブな存在である。

ある人の赤い花が好きだという思いは、また別の人の青い花の前が好きだという思いの前に無意味であり、両者の主観という名のちいさな領土は深い崖によって断絶されている。

そこで、「赤い花も青い花も選択できる庭」という可能性に担保することで両者が合意に至ることができる、というのがこれまでに説明した流れだ。

それは「豊かになり、より多くの選択肢が取れるように保険をかける」という段階での合意であり、この合意において人々は「この船がどこに向かうべきか」よりも「船をより良くする」という話題に熱中する。

船がより良くなり、どこへでも行けるようになるということは、どこへ行きたい人にとっても、あるいはどこへ行きたいのかが全くわからない人にとってもメリットでしかあり得ない。

この多数決のもたらす必然的な合意のもとで、集団や国家という船はますます丈夫に、きらびやかに、巨大になりながら、同じ海域を回り続ける。



「可能性や選択肢が増えるということはメリットこそもたらしても、不利益になることはあり得ない」という豊かさに対する信奉は、いうまでもなく全ての人間における生命の時間の延長、生命の価値の肥大をもたらす。長生きしたところで、人間にできることが減るわけはなく、必ず何かできることは増えるはずなのだから、寿命をいつまでもどんどん延ばして、永遠に向かうのが正しいのに決まっている。

ところがそう都合よく行くはずはなく、生命の期間を無限に延長したとき、生命の価値は増大するどころか脅かされることになる。なぜなら、無限に生命があるのなら、人には永遠に全ての可能性が残されるのであって、それが意味するのは人はいつまでも何もしなくてもよい、という甘美な事実だ。生命が無限になったときに訪れるのは、生命と似て非なる無機質、たとえば石ころや鉄クズのような存在との同一化である。生命に限りがあるという事実のただ一点において、僕たちは快適なソファと一体化した重い腰を上げ、何らかの行動を起こすことができる。

そして、生命が永遠であるということは、同時に永遠に生きる心配をしなければならないということでもある。無限の命を担保に取られたとき、人はいかなる自分より強大な存在の命令をも無視することができなくなるだろう。生命がそれ自体として価値のあるものだとしたら、生命を無限に延長するべきだが、生命が無限になったとき、こんどは人権と呼ぶべきものが無に帰するという矛盾が生じてしまう。



このように考えたとき、生命を限定するもの、すなわち死というものは一種の有用性を発揮していると考えることができる。無限の選択肢と無限の可能性を所有したとき、かえっていっさいの選択の必要性がなくなるという点において、むしろ選択肢に一定の制限があるという事情のみが人類を未来永劫の徘徊から外へ連れ出してくれるのだ。

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