弱さは個性か、欠点か


何年もかけて追っていた作家がいた。その作家は中年を過ぎてもいつまでもあれができない、これができない、などということでいつまでもくよくよしていて、そのようすも含めて個性的な魅力があったのだった。当時、何もできず、何も持っていなかった僕は、自分の未来まで投影してその作家の作品をかき集め、心の底から応援した。

しかし、人気に火がつき、成功を収め、結婚し、立派な文化人になってもなお、その作家はまるで成功路線に乗った自分が許せず、そのことに言い訳するように、「私は今でもこれができない、あれを持っていない」と言い続けたのだった。権威を得るほどにそれを打ち消す何かを探さなくてはならなくなる様子はあたかも、成功していくことが応援してくれた人たちへの裏切りで、罪悪感を覚えているという趣で、むしろ成功してほしいと思って応援してきた読者として不可解でならなかった。



その人に限らずだが、どこまでいっても、何を得ても納得せず、もっと上を目指す人たちがいる。彼/彼女らは、往々にして自分のことをネガディブだと思っているが、客観的に見れば常に自己否定して上を目指すのは上昇志向と呼ぶべき代物だ。

仏教関連の文献を読んでいたとき、「成長とは自己否定して新しく変わることだから、あるがままを受け入れるという仏教の考え方とは相容れない」という印象的な一節にあたったことがある。

当時は意味が分からなかった。成長しない、つまり弱い自分や、何かができない自分を否定しないということは、ずっと弱い立場に甘んじて、苦しみ続けることに他ならないのではないだろうか?

しかし、何を得ても満足せず、「わたしはちゃんとした人ではない」と自己否定を続ける作家を見たとき、この人の中に「何かをできない自分そのものへの愛着」があるのではないか、と思うようになった。


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