「人生なめてるほうがうまくいく」理由

目的なく考えることを「悩む」と言う。どこに行きたいのかも分かっていないのに闇雲に歩けば迷ってしまうのと同じで、考えるときに目標を定めなければ決まって暗礁に乗り上げることになる。眠りたいのに眠れない夜中、あてもなく思索を巡らせると鬱屈した結論が出るのはこういうことだ。まずは目標地点、つまり「望み」を知っているということが大事で、そこではじめて「考える」ということに意味が生じる。「自分の望みを言うという責任について」で「望み」の重要性を念押ししたのはそのためだ。



「絶望する”頭のよい”人たち」の回では「人は考えたいようにしか考えない」とざっくり説明している。目的地があればそこへ辿り着く道順は無数に提示されるが、自分がどこへ行きたいのかは誰も教えてくれない。つまるところ、生きることは辛い、生きるのは厳しいことだ、という結論が最初にあれば、そう思うための根拠はいくらでも探せるし、その逆もまた然るというわけだ。

「人間の精神はすり減るものだと思っていると、実際にすり減り」、そして「そう簡単にすり減らないものだと思っていると、すり減らない」と専門家が真面目に言っているのを聞いたことがある。実際にすり減っている人からすれば、論より証拠ですり減っているのだから、「すり減るものだと思うな」と言われても難しいだろう。だが、人間の思考はしばしば「そう思っているとそうなる」というマッチポンプの構造を呈している。

「どのように考えたいのか」という根本が変わらない限り、無数の新しい道順を辿ったとしても、最終的な終着点は変わらない。だから、「自分がいまどのように考えたがっているのか」を自覚することが、多くの道順を知るよりも先決だ。楽観主義者と悲観主義者はしばしば、ある地点に辿り着くまでに「直接・直線的に行く者」と「複雑な道を通って行く者」というふうに間違って分類されている。そして、「複雑な道を通って行く者」もまたそれに倣って自分を悲観主義者と誤解しているのだ。しかし、楽観と悲観の最も大きな差異は「どこに行きたがっているのか」という最終目的地の違いにある。


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