普通に生きていける人について(宣伝)

落ち込んで、もう立ち行かないと思ったときに、どうやって心を立て直すのか調べると、友達に会えとか、気分転換にどこかへ出かけろとか、家族をあてにしろとか、「普通の人に普通にあるもの」を要求されて、「普通」の前提ってこんなに多いんだな、と逆に感心させられます。

外へ出かけるには出かけられる精神力が必要だし、家族を頼るにはまっとうな家や家族が必要だし、友達に相談するには相談するに値する友達が必要だし、そんなものがあったら最初から悩むことなんてないだろ、とさえ思ってしまいます。



それもそうだ、友達に話したら気が軽くなるだろうし、運動したら気分は上向くだろうし、親身になってくれる人を頼ったら救われるだろうけど、そもそもそれができるのは何でなんだ、ということを教えてくれる人はいません。幸福について答えを出してくれる人はだいたいこういう「ノウハウ」みたいなものを教えてくれるけど、「ノウハウ」でなんとかなるにはまず「普通の人間」であることが必要で、普通でない人にはまず普通の前提条件が明かされるべきではないのか、と思います。

普通といえば、子供の頃からずっと、周りの人が自転車とか自動車に乗って進んでいるのに、自分だけ一輪車に乗らされているような感覚がありました。いちいちこけるし、起こさないといけないし、遅いし、進んでる時でもグラグラしていて、みんな本当に面倒なことを?と思っていました。

普通に生きていける普通の人になりたい、と思っていました。



先日、生活における慢性的な閉塞感の結論として原因不明の体調不良と来月の家賃が払えないくらいの経済危機に陥って、このままでは生きていけない、何か根本的に考え方を変えなければ、と色々と調べたりしたのですが、直面したのは冒頭に書いた「前提が多い」という問題です。何も持たない、何もできない人間が、それでも生きていくための、前提のない理屈を自分で考える必要が生じて、書き始めたのが「平気で生きるということ」というマガジンです。

見切り発車で始めたものの、疑問に感じていたことに対して想像以上に考察が進んで、最終的には一応の結論と呼ぶべきものが導き出せました。

「このマガジンは多分5人くらいにしか役に立たない」と宣言して書き始めたものの、最終的には多くの方のサポートと反響をいただくことができました。



タイトルのとおり、「平気で生きるということ」について考えるうえで重要だったのは、宝くじで1億円が当たって遊んで暮らせるとか、なんだか夢が叶って楽しく暮らせるとかそういうことではなくて、そのへんを歩いている普通の人をはたから見たときの頼もしさ、「普通の人が普通に生きていける感覚」を解明するということでした。

普通に生きているといっても、どんな人でも苦しいこととか悲しいことがあって、死にたいと思うことですらあるかもしれませんが、他人というのは「なんだかちゃんとしてる、グラグラしてなくて羨ましいもの」という感覚が僕にはずっとあり、それが欲しいとずっと思っていたのです。

そして、その「普通の人が普通に生きていける理由」を解析していったのが前述のマガジンなのですが、結論だけ述べたところで絶対に伝わらないのであえて言ってしまいます。普通の人が普通に生きていけるのは些細なことで救われるからです。



普通の人というのは些細なことで救われます。誰かを応援したり、何かを信仰したり、モノを集めたり、仕事が生きがいだといって働いたり、趣味や恋に生きたり様々です。そしてそれをはたから見るとなんとも頼りない、石ころのようなものばかりです。だけれど、その石ころを抱きしめて、「ああ、私はこの石ころがあるから生きていける!」と言えるのが、普通に生きていけるということではないか、と思います。

そしてかれらは躓いている人に対して多種多様な石ころを提案します。「私はこの石ころがあるから生きていける。あなたもこの石ころを持つべきだ」と。しかし、その相手は石ころで生きていける前提条件を満たしていないのです。

人を救うそれらの石ころは、時にまがいものであることすらあります。エセ宗教が作った高いツボとか印鑑とか、お金と引き替えに演出された偽りの愛だとか。でも、それで当人が幸せになってしまうのだったら、文句のつけようがないですよね。



そしてそれをはたから見て、問題意識の強い僕たちは思うわけです、「ああ、あんなまがいものに救われるなんて、愚かな人は羨ましい」と。あれがあるから幸福だとか、これができるから幸福だとか、そういうことじゃないだろう、と僕たちは思います。生きるとはそんな「ノウハウ」で処理できるような問題ではないのだ、と。

しかし、よくよく考えてみれば、僕たちの悩み、あれがしたいとかこれがしたい、あれが欲しいのに手に入らない、やれと言われているのにできない――それ自体がつまらぬことです。些細なことです。僕たちの悩みというのは、明日死ぬかもしれないのに、どうせいずれ老いて何もできなくなるのに、100年先の未来を心配しているようなことばかりです。

そうして、つまらぬことで悩んでいるのに、それを解決するのは神聖なものでなければならないと考えてしまうのこそ、普通になれないということではないでしょうか。



「平気で生きるということ」は、ほとんどこういった問題意識、「生きることを解決しなければならない」という意識を分解するために書かれました。

この世にはありとあらゆるものが存在します。どれも「生という問題」を解決するには些細な、つまらないものばかりです。「生という問題」の考え方を持っている限り、それらは無価値に等しく、そしてその考え方を引き摺っていればいるほど、世界は空虚な、色彩に乏しいものになってゆきます。

「平気で生きるということ」では、問題意識を解体し、些細なもの、つまらないものを生活に取り戻すことについて書いています。生きること自体が些細で、つまらぬことであるならば、それを救済するのも些細なもの、つまらぬものであってよいのです。

しかし、この世界には人生はすばらしく尊いとか、夢を叶えるのは全てを賭するのに値するとか、ものごとや生命を極大化する思想ばかりが蔓延っています。極大化した価値観は微細なものを切り捨て、かえって貧しい現実を作り出すのです。



お金がないから不幸だ、友だちがいないから不幸だ、結婚できないから不幸だ、それはそうかもしれません。しかし、それらを得ることで解決する問題なら「ノウハウ」で事足りるはずです。

このマガジンで扱っているのは「ノウハウ」の前段階、つまり「些細なことで救われるための条件」の部分です。些細なことで救われるには、「人生」という大問題ではなく、「生活」という些細な単位を取り戻さなければなりません。

もしそのことに興味がありましたら、ぜひ読んでみてください。




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