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どこまでも才能を認めない人の残酷さ


才能、というものがある。それは生まれつきの向き不向きのようなもので、たとえば足が長くて運動神経の良い人は努力しなくても速く走れるし、逆に頑張っても遅かったり、そもそも走れない人もいる。

また、そうでなくて単に「何かが好き」だったり「全く苦がない」というのだったら、それに対する努力のコストを大幅に軽減できるし、それもまた一種の才能と言えるだろう。要するに、みんながあらゆることに対して同じ資質を持っているというわけではない、というだけのことだ。



ある日、web上を巡回しているととても速く走ることのできるアスリートがこんなようなことを言っていた。

「才能なんてものはない。才能というのは努力しない人間の言い訳。僕はそういう言い訳で諦めた人たちを尻目に努力して、それだけでここまで来た。」

典型的マチズモ。精神論。根性論。だけれどこれはごく普通のことだ。才能というのはある人にとっては空気のように当たり前にあるもので、その存在を意識するのはそれが薄くなったり、なくなって窒息した時だけなのだ。自覚できないからこそ、自分で認識できる「努力」だけが自分をこの場まで導いたと、成功者は考える。

人が何かを特別にうまくできる、ということを断じて認めないときに、同時に存在を許されなくなるものはなんだろうか?それは「何かが特別にできない人もいる」ということだ。


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