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ばらの庭へ

世の中が無際限に豊かになるエネルギーはただひとつ、大は小を兼ねるという信念に依存している。もしも人がより多くの選択肢を得たとき、ひきかえに何かを失うとしたら、選択肢の多いことが豊かであるという前提からしてひっくり帰ってしまうからだ。

前回、説明したあるひとつの問題は”主観は客観に淘汰されてしまう”ということだ。この普遍の問題は70年以上前に出版された小説「星の王子さま(サン=テグジュペリ、1943年)」で直接的に触れられている。



ぼくがこんなふうに、B-612番の星の話をして、その番号までもち出すというのも、じつはおとなの人たちがよくないからです。おとなというものは、数字がすきです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。<どんな声の人?>とか、<どんな遊びがすき?>とか、<チョウの採集をする人?>とかいうようなことは、てんできかずに、<その人、いくつ?>とか、<きょうだいは、なん人いますか>とか、<目方はどのくらい?>とか、<おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか>とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。
(「星の王子さま」サン=テグジュペリ、内藤濯訳)



この本の素晴らしいところは、あらゆる時代、あらゆるコミュニティで起こる普遍的なプロセスを、どんな思想や価値観の前提も借りずに言い表している点にある。したがって、これまで、そしてこれから本文でいかなる文章を引用したとしても、それを前提として参照する必要はなく、この短い本を読んだことがある、もしくは今から読むことで事足りる。

「主観は客観に取って代わられ、ものごとの本質は失われる。」

これは何も現代にのみ起きていたり、加速している事態ではなく、何百年も前から日常的に起きていることであり、地球全体とか人類全体という大きな枠組みで進行しているわけではない。

たとえばある娯楽や芸術ジャンル、ある地域や文化コミュニティ、さらには会社や小さな集団、個人という単位でさえ、これはそれぞれの内々に起こり、栄華盛衰のプロセスに関わっている。

また、この問題は数字に表せるもの―――価値や豊かさ、金銭など―――ばかりでなく、善悪や道徳のルールといったものにも深く関わっている。そのため、この考えを軸にして考えれば、時代や人々が何を考え、何を行おうとしているのか知る手がかりになるわけだ。



さて、冒頭の話題の戻ろう。僕たちが今、立っているのは比較競争によって想像される豊かさの最先端にあたる時代である。

前回、大きなポケット、多くのボタンがついた服のたとえで話したように、僕たちは欲しいものひとつを取っても無限の選択肢、無限の比較のすえに最善の選択をすることを求められている。なぜなら、価値は数字化できるもので、自分の持っている数字をより少ない価値のものと交換するのは「愚かな判断」だからである。

そして、何かが欲しいと思ったときに提示される選択肢の多さ、支払う対価に対して提供される価値の大きさこそが時代の豊かさだと考えられている。

当然の帰結として、人はより多くの可能性を得ようとする。より多くの金銭を得ることで、「何かが欲しくなったときのために」実際には使わないかもしれない金銭を得なければならない。「何かすることができたときのために」実際には持て余すかもしれない生命を、より長く健康に過ごさなければならない。実際にはそれらを何かに”使わない”としても、自分の価値を”可能性そのもの”に担保することで、具体的な選択を明日に繰り上げ、幸福を貯蓄することができるからだ。



しかし、あえてそもそもの話をするならば、金銭は何かに使わなければそれ自体として価値を持つものではないし、また生命や時間も、したいことがあって、それに消費するのでなければ、ただ無為に流れていくだけのものである。

そうであるのに何故、人が無限の選択肢と可能性を求めるのかというと、自分が何が欲しいのかも、何がしたいのかも全くわからないからだ。

もしも自分の欲しいものが分かっていれば、それを買うのに必要な金銭があれば満足できる。またしたいことが決まっているのなら、それに必要な時間の余裕があれば生命は事足りる。それが分からないからこそ無限の金銭が必要で、また無限の生命が必要になる。そして、可能性を担保することに集中しすぎたばかりに、可能性が肥大し、もはや実際に何を選択すべきか分からなくなる、というのが資本主義の子どもの運命である。



「星の王子さま」では、この「無限の可能性」というものの持つ悲哀を「ばらの庭」というモチーフで表現している。

大まかに説明すると、「星の王子さま」は自分のちっぽけな星に飛んできた種から咲いた一本の花を、この世に2つとないものと思って大事に世話している。ところが、この花が王子さまに向かってついたてを立てろとか、覆いガラスをかけろといって、なんでも心配をかけて愛情表現を要求するもので、王子さまはその星から逃げるように旅に出てしまうのだ。

旅の終わりに王子さまは地球にたどり着き、その花が五千本も咲いている庭を見つける。自分がこの世にたったひとつと思っていた花が、何千本もあるばらの花の一本に過ぎないということを知って、突っ伏して泣いてしまう。

だが、王子さまは地球で出会った「きつね」と友だちになり、その過程で自分の星のばらが、やはり自分にとってたった一本のものだと再認識するのだ。王子さまはばらの庭に向かい、何千本の花に向かってこう罵倒する。


あんたたち、ぼくのバラの花とは、まるっきりちがうよ。それじゃ、ただ咲いてるだけじゃないか。だあれも、あんたたちとは仲よくしなかったし、あんたたちのほうでも、だれとも仲よくしなかったんだからね。ぼくがはじめて出くわした時分のキツネとおんなじさ。あのキツネは、はじめ、十万ものキツネとおんなじだった。だけど、いまじゃ、もう、ぼくの友だちになってるんだから、この世に一ぴきしかいないキツネなんだよ



人が豊かになろうとしてするのは、「ばらの花」を庭に何千本も集めることに他ならない。ばらの庭には、もっときれいなばら、もっと丈夫なばら、違う色のばら、丈夫なばら、とげの多いばら、少ないばら、ありとあらゆる可能性のタイプがコレクションされている。そして、それらの全てが「わたしが選ぶことになるかもしれない薔薇」として保持されていることが、世界が人間に保証する唯一の豊かさであり、そのどれを選ぶべきか、どれを願うべきかという現実的な問題は各人の責任に委ねられている。

つまるところ、「人がひとつの可能性のばらを選び、それに満足する」という、それぞれの人にとっての最重要問題は「豊かさ」の管轄ではないのだ。

キツネは「星の王子さま」に向かってこう忠告する。


「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」




あなたの身近にとてもよい絵を描く人がいる。あなたはその絵が好きだからその人にずっと描いてほしいと思っている。ところが―――いま、ネットに繋げばその人よりずっとうまく描く人、もっと人気の人が何万人もいると知ることになる。それでその人は滅入って、描くことをやめてしまう。あなたは、その人の描く絵が誰よりも好きだ、と説明する。だけれどその人は、自分の絵が実際に、他のどの絵と比較してもある一部分では劣っていることに気付いている。あなたにとって、その人の絵こそが一番だということを、あなたは説明することができない。なぜなら、あなたのその「好き」だという思いは、絶対的に正しくありながらも、他の誰かに説明できない「主観」に過ぎないからだ。あなたの、こっちのほうが好きだという思いは、何が良くて何が悪いかということを熟知した人たちの、冷たく客観的な言葉のまえに一蹴されてしまう。

僕たちはいまでは、一本のばらを願うとき、あっという間にばらの庭に連れていかれることになる。こちらに飛んできた種から咲いた、たった一本のばらを世話していればよかった時代は過ぎ去り、幾多のパターンのばら、赤いもの青いもの、大きいの小さいの、その中から自分に最適なばらを、誰もが納得する正しい理由で選ばなければならないのだ。



人がより多くの選択肢を得たとき、ひきかえに失うものとは何だろうか?

それは必然性だ。選択肢を得れば、それだけ必然性を失う。ばらの庭の中で一本のばらを失っても、またべつのばらを愛でればそれでよいわけだ。そして、より多くの可能性と選択肢に豊かさを見出すなかで、人はもはやどのばらを選ぶことにもなんの必然性もないことを悟る。

そして、より多くの可能性を残すために、人は選択しないという道を見つける。次回、ばらの庭の中で人がどのような行動を取るのか、もっと具体的に考えてみよう。

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