"動機の消失"の時代
前々回、社会が人々に「何かしなさい」と命じ、その結果正反対の願望、「何もしたくない」が生じる、と大雑把に書いている。
「何もしたくない」という願望に対して懐疑的でなければならない最大の理由は、死体でも、むしろ死体こそそれを遂行するのに適した存在であるからだ。もし「何もしたくない」を手短に実現するなら死という手段はある種妥当だが、それはわざわざ呼び寄せなくともものすごい速度で僕たちに迫っているものだ。
「何かをしたい」という願望は、人間にとってほとんど希望そのものだ。だから「何もしたくない」となった人間が健全に生きていくことは難しい。だが、現在の社会と僕たちを取り巻く環境は「何かをしたい」という希望の芽をことごとく摘むようなものになりつつある。
言ってしまえば、今のこの社会で暮らす人が「希望を持てない」のはごく自然なことだ。だから、希望を持てない自分がおかしいと思う必要は全くない、と断言できる。社会が人から「何かをしたい」という願望、希望を奪うのだとしたら、それがどのようにして行われるのか知っておかなければならない。そうでなければそれ取り返すことは難しいだろう。
前々回に多用した「資本主義」という概念をもういちど持ち出すことになる。資本主義が人に対して負っている責務は以下のようなものだ。
・人間やその生み出すものを共通に数値化できる価値(つまり金銭)に統一する。(定量化)
・人間の競争、個人的な感情のぶつかりを資本主義マチズモで平等に裁く。
・金銭の発生にまつわる文化的背景、人間の精神性などを省略し、最適化する。
資本主義と個人の生活の関わりは、おおむね実体のわからないネット上のショッピングサイトが地域の書店を潰すという関係性の延長で捉えることができる。あるいは、その書店の跡地にパチンコ屋が立つかもしれないし、個人経営の商店が潰れてチェーン店になるかもしれないし、ショッピングモールが立って商店街がまるまる潰れるかもしれない。
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