「ちゃんとした人」なんていない

さて、ネット上を覗いてみよう。こういうことを言う人がいる。私は何かを持っている―――愛、子供、金銭、自由、ペット、その他なんでも――――そして、そのことが幸せだ。その通りだ、と同意する人々が集まる。そうですね、持っていることは素晴らしいですね。共感の輪が広がる。

一方でこのような人もいる。私は何も持っていない。愛を持っていない、金銭を持っていない、よい家族を持っていない、恵まれた環境を持っていない。そしてそのことが不幸だ。またこの人に同意する人々が集まる。そうですね、持っていないことは苦しいですね。共感の輪が広がる。

多くの人はこの二つのどちらかのことを言っていて、中間の人は本当に少ない。この二つのグループはしばしば、というよりはおおむね対立している。持てる者と持たざる者の間で会話が成立することは少ない。だが、二つのグループは根底的な部分では既に互いに同意を得ている。「何かを持っていること」が幸せで、「それを持っていないこと」が不幸だ、という前提だ。

だから、「私は何かを持っていないから不幸だ」と嘆き続けた人は、その何かを得たら「私はこれを持っているから幸せだ」と誇る立場に翻ることがある。よくあることだ。



先日、台湾では同性婚が合法化された。抱擁する人たち、それを取り巻く笑顔、カラフルな花飾りの写真がこちらにも舞い込んできた。一方の日本はというと、現役の政治家が「同性婚は”生産的”でない」と主張したニュースが真新しいくらいで、まだまだ追いつくのに時間がかかりそうだ。

「生産的でない。」

この言葉には社会というものの本質が垣間見える。社会とは弱者や少数派を守ってくれるものではなかったか。しかし実際のところは「社会全体の利益を増幅させる望みを持つべきだ」と僕たちに説いている。つまるところ、社会は人のためにあるものではなく、社会そのもののためにあるようだ。

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