六本木クライマックス/コスモポリタンの時代

 こないだのレピッシュ・マグミのトークショー

 マグミと杉本恭一が熊本から出てきて、ツバキハウスのロンドンナイトに足繁く通い、そこでニュー・ウエイヴなどいろんな音楽を知って、それがレピッシュに繋がった、という話はよく知られていると思うが、彼らは大貫憲章さんのDJを追いかけて自由が丘のバナナトリップという小さなバーにも通っていたらしく、私も何度か行ったことがあるので、おお、オレも行ってたよ、みたいな話で盛り上がった。

 でも一番驚いたのが彼が六本木のコスモポリタンにも通ってたってことだ。私はコスモポリタンの前身となるクライマックスの常連で、それこそ週末ごとに通いつめていて、クライマックスが潰れたあと、その従業員が開店したコスモポリタンにも通っていた。じゃあ当時絶対会ってるよね、みたいな話でマグミと盛り上がったのだった。マグミとは7歳違いだが、私の夜遊び時代の末期と、彼の夜遊び事始めがちょうど重なっていたことになる。マグミたちが上京した時には既にクライマックスは潰れてて、そのレコードがごっそり移動したというコスモポリタンの噂を聞きつけ通いだしたらしい。

 クライマックスは六本木の外れの旧テレ朝近くのビルの地下にあったディスコで、まあ今で言うクラブの走りですね。ロンドンナイトよりさらに過激で先鋭的なパンク〜ニュー・ウエイヴがかかっていた。それこそポップ・グループとかディスチャージとかキリング・ジョークとかで踊るというかフロアで大暴れするのが週末ごとの楽しみだった。私が人生で一番夜遊びしてた時期です。DAFを最初に聴いたのもこの店で、「ディア・ムッソリーニ」のあのシンセリフがフロアに大音量で流れた時の衝撃は今でもまざまざと覚えている。もちろん私らみたいなアホは一部で、一般客にはデュラン・デュランとか人気あったんですけどね。UB40とかボブ・マーリーのレゲエもよく流れてて、その間私ら暴れたくて仕方ないアホなパンクスは「あーだりーなー」とか言ってソファでうだうだしてた記憶が。BOOWYのメンバーとかが常連だったって話は有名だけど、ほかにもムーグ山本さんとか、クライマックスの客でその後有名になった人は多い。上のリンクにあるマサミもそうだし、ハードコアもニュー・ウエイヴもオルタナもハウスもヒップホップも、その後出てきたいろんなクリエイターたちが若いころみなここに集結していたというか。朝まで踊って大暴れして、閉店後も飽き足らず近くにあった5~6人も入れば一杯になるバーに押しかけて、スロッビング・グリッスルを爆音で聴いて盛り上がったりしてた。いやー青春でしたな。その頃の夜遊び仲間は,今も付き合いが続いてる連中が多い。

 コスモポリタンは六本木交差点の近くにあって、クライマックスほど過激ではなく、もっと一般的なディスコに近かった。同じ六本木には玉椿というツバキハウスの系列店やレキシントンクイーンという店もあって、そこもニュー・ウエイヴ・ディスコとして有名だったけど、そっちは当時既にスーパースターだった坂本龍一がVIPルームでたむろっているような、そんなオシャレなセレブ系の店で、小汚くて金もない私らには無縁でした。教授やユキヒロさんがちょうど来日していたクラフトワークのメンバーを誘って玉椿に遊びにいったら、クラフトワークが女の子をナンパしてるのを見て、なんだか失望したって坂本さんが回想してましたね。自分を棚に上げてよく言うよ!という感じですけどw そういえばコスモポリタンで、会社帰りにビジネススーツで行ったらドレスコードを理由に黒服に追い出されそうになった時があったなあ。坂本龍一のシングル「WAR HEAD」はその頃の雰囲気をよく伝えています。「WAR HEAD」の原曲は「レキシントン・クイーン」というタイトル。


 私はちょうど就職してすぐぐらいの時期だった。それ以前から新宿のディスコにはちょくちょく通ってたけど、それは音楽目的でも、ましてナンパ目的でもなく、夜7時以前に入るとフリードリンクフリーフードという当時の大衆ディスコによくあるシステムに引かれて、腹一杯飲み食いするためだった。カンタベリーハウスギリシャ館とかね。70年代終わりぐらいからパンクやニュー・ウエイヴをかける店が増えて、普通のディスコソングがかかる店は行かなくなっちゃったけど、私が行かなくなった直後ぐらいにマイケル・ジャクソンが「オフ・ザ・ウォール」を出して、それがディスコのダンスフロアでいかに衝撃的で新鮮に響いたか、という話はかなりあとになってマイケルの再発盤のライナーで読んで、あーもう少し我慢して通ってればその現場を体験できたのに、と後悔したのはあとのマツリ。そうなってたらその後の人生も変わったかな、と思ったり。

 コスモポリタンは1年もたず、確か半年ぐらいで潰れてしまったと思う。私はその前後に社命で名古屋に転勤になってしまい、閉店には立ち会えなかった記憶がある。名古屋にも同じようなパンクニュー・ウエイヴディスコはあって、スタークラブのヒカゲとかが大暴れしていたはずだけど、転勤を機に私は夜遊びを辞めてしまった。言ってみればクライマックスやコスモポリタンが私の夜遊び全盛時代の最後であり、いわば青春期の最後の輝きだった。ロックをダンス・ミュージックとして捉えるセンスは、間違いなくこの時に養われたと思う。私がディスコ、ではなくクラブにまた通い始めるのは、若き日のEMMA君に誘われ下北ZOOでNEWSWAVE NIGHTを始める80年代後半だった。客としてではなく、DJとして。

よろしければサポートをしていただければ、今後の励みになります。よろしくお願いします。