[追悼] 西城秀樹の訃報に接して。

 彼とは完全に同世代です。学年でいうと彼が一つ上。もちろん彼は高校生の頃からバリバリに活躍してましたから、年が近いとはいっても住む世界が違いすぎて仲間意識はあまりないし、特にファンだったわけでもない。桑田佳祐も確か西城と同じ年だけど、そういう意味では桑田の方がはるかに身近な存在でしたね。

 でも西城が歌手として一番勢いがあったころは私も歌謡曲を熱心に聴いてましたから、代表的ヒット曲は特に意識しなくても全部覚えている。暑苦しい熱唱型でしたけど、歌は抜群に巧かった。ロックが好きだったらしく、世が世であれば、そしてイギリスやアメリカに生まれていれば、ロッド・スチュワートみたいになってたかもしれない。同じロック指向の歌手として、少し上の世代に沢田研二というスーパースターがいて、おそらくその影を常に意識せざるをえないところはあったんじゃないか。

 ロック歌謡的な路線から、大人への脱皮を図って、一時期、阿久悠の作詞で、年上の女性との不倫を匂わすようなねっとりバラード路線を続けていたことがあります。その頃の代表曲が「ブルースカイブルー」。



 西城の最高傑作であるばかりか、昭和歌謡史に残る名曲だと思います。でもたぶん西城はその路線がイヤで、結局阿久悠と手を切って、歌ったのが「ヤングマン(YMCA)」なんですね。「ヤングマン」は大ヒットして代表曲になり、路線転換は成功したんだけど、ああいう元気で健康的なイメージが強くこびりついてしまったのは、彼にとっていいことだったのかどうかはわからない。

 実は西城と同時期に、同じ芸映プロ所属だった岩崎宏美も、デビュー以来、すべてのシングル曲の作詞を手がけていた阿久悠と離れています。つまり阿久悠と切れたのは本人というよりマネージメントの意向だったのかもしれない。このことについて、昨年の雑誌「東京人」の阿久悠特集の取材で岩崎さんに訊いたことがあるんですが、まだ若かった彼女はそのへんの事情は聞かされていないようでした。阿久悠は若い歌手に歌詞を提供するとき、その歌手の人間的成長を促すような内容にすることを心がけていたようなので、もしそのまま阿久悠が西城秀樹の歌詞を作り続けていたらどうなっていたか。大人になった西城に阿久がどんな詞を提供したか。それによって西城がどんな歌手に成長していったか。それも興味深いところです。

 あとはやはり「がきデカ」の西城君かな。西城君、ジュンちゃんモモちゃんあべ先生。主要登場人物の名前が当時人気のあった歌謡曲歌手の名前からとられているってことを知ってるのは、やはりリアルタイムで読んで(聴いて)いた世代のみってことなのかしら。野口君でも郷君でもなく西城君なのがポイントなのよ。

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 いろいろ思い出は尽きませんが、私の人生において忘れられない歌手のひとりだったことは間違いない。享年63歳ではなくもう少し上じゃないかという説もあります。そういえば以前そんな話をどこかで聞いた気もするが、でもほとんどの日本人にとっては63歳なんだから、それでいいですよね。

 ここ数年は病との戦いだったようだけど、安らかにお休みください。同世代の最高のスターが亡くなって、本当に寂しい。心からご冥福を祈ります。


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