追悼:相川和義さん。

 私にとって恩人と言える先輩のひとり、元雑誌『DOLL』の相川和義さんが亡くなりました。死因は大動脈解離だそうです。お葬式の日程は以下の通り。

お通夜…5月1日17時〜
告別式…5月2日9時30分〜
場所…セレモ船橋駅北口ホール(千葉県船橋市北本町1−3−11)

 相川さんと初めてお会いしたのは80年代後半だったと思います。編集長だった森脇美貴夫さんは既に編集の現場からは離れられていて、相川さんが社長として『DOLL』のすべてを取り仕切っておられた。彼を知る誰もが言うはずですが、温厚で気さくで優しくて、誰に対しても分け隔てなく接してくれて、本当にいい人だった。私などは親しみを込めて「シャチョー!」と呼んで、よく飲みました。正直、仕事の付き合いよりも飲みの席でしょっちゅうご一緒したことをよく憶えています。

 私は『DOLL』で自己形成した世代ではありませんが、それでも初めて『DOLL』に書かせてもらった時は本当に嬉しかった。同時代のインディペンデントな音楽雑誌といえば『フールズメイト』や『ロック・マガジン』ですが、パンク上がりの私にとっては断然『DOLL』でした。今となってはパンク専門誌的なイメージのある『DOLL』は、少なくとも80年代終わりぐらいまではパンク/ニュー・ウエイヴを中心に柔軟な編集方針だった。カルチャー・クラブやジュリアン・コープなどが表紙になった時もあったんですよ。その懐の深さは、相川さんの人間性にも通じていたと思う。

 相川さんは『DOLL』が軌道に乗る前、甲斐バンドのマネージャーとして誘われたことがあるとご本人から聞いたことがありますが、もし彼が誘いに乗って『DOLL』を辞めていれば、『DOLL』は早々に潰れていたと思います。

 月刊誌になってからの『DOLL』はそんなことありませんでしたが、隔月刊だったころは原稿料なしでした。つまりあの時代の『ZOO』(『DOLL』の前身)や『DOLL』に載っていた原稿はみなタダ原稿だったはず。それでも『DOLL』に書けることは名誉だと思っていたから、一生懸命書きました。書き始めたころ相川さんに「ウチは原稿料なしだけど、書いてもらう限りは、書き直しもありうるからね」という意味のことを言われたことをよく憶えています。貧乏なインディ雑誌だったけど、プロの編集者として、ちゃんとプライドをもって作っていたんですね。私はミニコミあがりのライターですが、商業誌に於けるライターとしての作法や振る舞いは、『DOLL』と相川さんに教わったものが大きい。つまり相川和義さんと『DOLL』、そして評論家として多大な影響を受けた森脇美貴夫さんがいなければ、今の私はなかった。それだけは断言できます。

 『DOLL』が亡くなってからは、相川さんと連絡をとることもなくなり、いつしか疎遠になってしまいました。彼が千葉県在住で、私の自宅からは遠いということも一因だったけど、多忙を理由に不義理していたことが、今はただ悔やまれます。

 相川さん、ありがとうございました。あなたのことは、決して忘れません。安らかに、お眠りください。

 

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