環境を言い訳にしてはいけない。はずだった。
今はどうか分からないが、僕のいっていた大学でも、建設に関わる技術については若干学べた気がするが、建築の社会性やデザインの方法といったことは全く触れられなかった気がする。
デザイン的なことに関しては全く独学だと言っていいと思う。必死で身につけようと思ってきたけど、学校で教わった記憶がない。
在学中は大学に対しては不満ばかりで、その環境を呪った、とは言わないけれども虚しさと焦りはあった。ただ、環境を言い訳にはしたくなかった。
一見、環境が悪くてもそれを自分のバネにできることも、環境が人を大きく伸ばすことも、おいそれと変えられない環境があることも経験的に知っている。ただ、環境を言い訳にしてしまえば、それで様々な可能性は消えてしまう。それは間違いない。
環境を言い訳にしないために一番大事なのは、環境を言い訳にしないと決めてしまうことだろう。決めてしまえば、その環境を受け入れた上で可能性を見つけ出すか、環境を変えるかどちらかしかない。
やるかやらないか。0か1か。考えることがシンプルになる。
しかし、である。
高校時代の途中までは、そういうシンプルな思考に頼ることができて、熱く語ることもできたんだけど、不幸にもやらないと決めていたタバコを覚えてしまった。
0と決めてたはずが1になってしまうと同時に、それは2にも100にも、時には≒0になったりして、0か1かの信念は崩れてしまった。やがて、タバコを覚えるということは言い訳を思えるということなのだと知った。
あの日からシンプルだった世界が複雑で曖昧なものになってしまい、環境はぼやっとしたとらえどころのないものになってしまった。言い訳によって可能性がパッとは消えはしないが、段々と遠く、薄くなっていき、やがて手が届かなくなっていく。
そしてその先に今の自分の境遇がある。これはもういろいろタバコのせいとしか言いようがない。
そう考えたら、案外というか、けっこう悪くない境遇な気がしてきた。
できることも、できないこともあるけれども、ぼちぼちと言い訳しながら行けるところまで歩いていこうと思う。
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