尖らずにやわらかな肯定感を持てるか

それは、おそらく問いのたて方に問題がある。
「乗り越える」という意識はおそらく無意味なのである。
「コルがコルであった」という事実を他人が乗り越えられるわけがない。

これを書いた時から、設計者の持つ固有性もしくはキャラクターのようなものも大切だと思うようになった。そこの基盤がしっかりしているからこそ自由に振る舞える。

前回のパスポートのところでも似たようなことを書いたけれども、その固有性のベースになるものは特殊な尖ったものである必要はないと思う。

どれだけ尖っているかよりどれだけ深く掘っているかがより重要で、そこを自然な形で信じられるかどうか。それはやわらかな自己肯定感とでも言えるだろうか。

その点では親の振る舞い方も大切だと思うけれども、ついつい否定的な怒り方をしてしまう。

たまに夜、子どもと二人でゆっくり話ししながら歩いたりするけれども、その時は割とゆったり構えて否定的ないいかたをしないようにできる。こういう時間をもっと大切にせねば。


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