ベトナム人と陰翳礼讃
ベトナムに来ている。
最初に来た時は、空港を出た瞬間にバイクにひかれ、二度めに来た時にはマッサージ屋にぼったくられて、もう二度と来るかと思ったのだが、気がついたらもう五度めの来訪である。
なぜか。
考えてみたが、多分、この国の持つ「暗さ」に惹かれているせいだと思う。
ベトナムの風景には、常に影がつきまとう。
例えばカフェなどは、日中、照明をつけない。そのため昼でも店内はとっぷりと暗く、店の奥の席なんかに座ると、本を読む手元すらも見えない。外が明るすぎるから、これぐらいでちょうど良いのだろう。
それ以外でも、きりりと濃い影、シルクのスカーフのようにふわりとした淡い影、湖水のように透明な影、と、さまざまな香りの、さまざまな表情を持つ影が、この、熱気に蒸れた南国の景色を彩っている。賑やかな草花の色、通りを歩く女性たちの、派手やかなブラウスの色と、調和を保つように。
トタンの屋根屋根が鼻先をこすり合わせる、バラック小屋の並ぶ路地、
午睡にまどろむ家々の、ふと窓から覗いた、キッチンの薄暗がり。
繊細な透し模様の彫られた家具調度が、陽の光を通して床につくる陰影。
路地に緑緑と繁る木々の、ひんやりとした足元には犬が寝そべり、レースのような葉陰を鼻にのせて寝息を立てている。
タイやラオスのような、あっけらかんとした明るさではない。街中のどこを切り取っても、ベトナムの景色には常に、隠微で根の深い暗さが常につきまとっている。
人も、明るすぎないのがいい。他の東南アジアの人々の、アッパーすぎる明るさにどうにも馴染めない人でも、ベトナム人の、適度な暗さやはにかみ加減にはしっくり心落ち着く人も多いのではないか。愛想はいいがサービス精神はそこそこ。笑顔にも、全力というより適度な歯止めがある。
笑いすぎず、生真面目で、控えめ、あまり愛想がいいわけではないが、決して突飛な明るさを見せない。「そこそこの暗さ」が、引き算の文化の日本人にはちょうどいい。
ここまで書いて、ふと気づく。
そうか、どうしてこんなにも心落ち着くのかと思えば、なるほど、
ベトナムも、日本も、陰影礼讃の国なのだ。
翳り、ほのかさ、余白に生まれる美のようなものを、美しさとして人々が認めている気がする。影がもたらす静寂を知っている。だから落ち着くのだ。
一人でいても、苦にならない。
だから私は、わざわざ6時間もかけて、日本からベトナムの、日の射さない、照明の消えた午後のカフェにまで、何度も飽きることなく執筆しに来ているのだ。
コンデンスミルク入りコーヒーの、あまりの濃さと一杯の量の少なさに、毎度苦笑いしながら。
皆が皆、不眠症気味で、24時間絶えず働いているような国に住んでいると、
明るさが礼讃される現代日本で、蛍光灯とLEDの光に溺れていると、時々無性に、影に覆われて「見えづらい」空間が恋しくなる。そのため、影を愛するベトナムの人々の間に紛れているのが、私には心地よく感じられる。街の隅々にまで繁茂する影が、私の中の暗さを、手のひらで撫でてくれるような気がするのだ。
とある日、街のカフェで仕事をしていると、ベトナム人の女の子に話しかけられた。
「ベトナムが好き?どこが好きなの?」と英語で聞かれて、言葉につまり、
陰影礼讃って英語でどう言うんだっけ、と頭をひねりながら、ええい、伝わる分だけでいいや、と思って
「ベトナムの魅力は、シャドウ・ビューティー。影の美だよ!」
と答えた後で、その単語の仰々しさに自分で苦笑してしまった。
女の子はピンとこなかったようで、首をひねりながら、私の英語力が足りないのかしら、それともこの日本人の、という感じで、最後にははにかんで行ってしまった。余計な気を使わせたかもしれない。
多分、英語でスパンと割り切れるようなものではない。ベトナムの美しさを正確に表現しようと思ったら、あの、それ自体が隠微な響きを持つ、異常なほど声調と音韻の分岐した、複雑怪奇なこの国の母語を使う以外にないのではないか。と、同じぐらいに入り組んだ、複雑な文法を持つ国の国民である私は思う。
多分、一度明るい国に叩きのめされ、それでも負けずに這い上がった、薄暗い歴史もその美を縁取っていることだろうと思う。
ベトナムの持つ、透かしレースのような繊細で奥行きのある美しさは、じぃっと覗き込んでいればいるほど、時間差で層を持って輝くような気がする。
こうして私は何度も何度も、その薄暗さを覗き込みに、かの国の影の罠の中に、足を踏み入れてしまうのである。
ありがとうございます。