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「バー漆黒」のマスターのこと


前回の「漆黒」の話の続き。

西早稲田で清田さんと別れ、帰ろうとしたら、知らない番号から電話があった。誰だろうと思って出たら、開口一番、相手は
「会いたいよお前に!」と、猫が5億回爪研ぎをした後のカーペットのような、ボロボロにささくれだった酒灼けの声で怒鳴った。

「バー漆黒」のマスターだった。
8年ぶりだった。


「バー漆黒」は『傷口から人生」にも登場する、私が人生で一番、どん底だった時に働いていた、歌舞伎町の会員制バーである。


もう一度地震があったら崩れ落ちてしまいそうなボロボロのビルの奥、鰻の寝床みたいな細長い店内に、漆塗りの真っ黒なカウンターテーブルが一枚、どんと鎮座している。

青い照明がバカラのグラスを艶やかに光らせ、女の子たちは皆、白いシャツかブラウスに黒のタイトスカートという出で立ちで、お触りも下ネタも禁止、気品のない行為は禁止、年齢不詳のママと、毎日来て女の子に寿司か焼肉をおごり、札束を握らせ、客を罵倒して帰ってゆく、謎のマスター(多分当時ですでに60台後半だった)が経営している、歌舞伎町にあることが奇跡としか思えないバーである。

遅刻をしても無断欠勤をしても、怒られない。
時給はマスターが勘で決める。
私の時給は1700円だった。

そんな謎の店で、私は働いていた。やりたくなくてやりたくなくてやりたくなくてしょうがない仕事を、生きるためには仕方がないと、嫌いや、やっていた。

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