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「ぼっち」の幸福論

 集合写真が嫌いだ。

 そこに集う人、全員が全員決して人生順風満帆というわけではなく、調子の悪い人、お腹の痛い人、前日にとんでもなく悲しい事があった人、親の抱えた借金を肩代わりすることになって途方に暮れている人、となりのとなりに立つアイツがとんでもなく憎い人、いろんな事情を抱えた人がそこにいるのにも関わらず、いっせーのせ、で「今が私の人生で一番ハッピーな瞬間です!」みたいな顔をして写らないといけないのが、なんともいやったらしい。

 まるで、皆と同じように笑わない人間は人間失格、社会の落伍者、つららのように冷たい心の持ち主、と言われているような気がして、シャッターを切られている最中にも心がしんしんと暗くなる。というわけで、中高の卒業アルバムに、私が写っている集合写真は一枚も無い。写真撮影の当日にわざわざ早退したくらいだ。

 もしも私が積極的に集合写真に映るとしたら、それは自分の葬式だろう。棺桶に入った私を取り囲む辛気くさい慰問客たちの顔を、あの世から眺めてほくそえみたい。

 と、ここまでいじわるばあさんのようなことを書いたが、こういう陰険な性格のために、私は人生の多くの時間を一人で過ごしている。

 一人は気楽だ。

 一人はすがすがしい。

 一人は身軽である。

 こんなにも良いコトづくしの「一人」なのだが、なんだか世間では悪者扱い、SNSの普及のためか、一人では何かと消費が進まないためか、シェアとかつながりとか「絆」が賞揚されるこの昨今の社会においては、「一人」であることは、まるで不幸なことであるかのように演出されている。ひとりは寂しい、とか、みんなでいるほうがハッピー、といった同調圧力のおかげで、一人でいることはなんだか、悪いことのように思えてきてしまう。若者言葉で、友達がおらずひとりで行動する人間のことを「ぼっち」と呼ぶが、この「ぼっち」はとても恥ずかしいことのように扱われている。最近では「一人カラオケ」「一人ラーメン」など、一人をエンジョイする若者をターゲットにしたサービスも生まれつつあるが、あくまでも都会が中心であり、田舎ではまだまだ「一人」に対する風当たりはきつい。あふれる情報の波に巻き込まれ、孤独とのちょうどいい距離の取り方が、分からなくなってくる。

 孤独でいることは、悪いことなのだろうか。「ぼっち」は不幸か。

 しかし私は、一人でいることの幸福、というものも、たしかに存在する、と思う。


「ひとり」について考えるとき、いつも、思い出す光景がある。

 小学校一年生の時のことだ。

 我が1年2組の教室は、校舎の1階にあり、ガラス窓を隔ててグラウンドに面していた。子供たちは授業が終わるごとに外へと駆け出し、休み時間の多くを校庭で過ごしていた。わたしは、その輪に入らず、窓際の席で、じっと本を読んだり絵を描いたりしていることが多かった。

 その日の季節は五月で、校庭から吹き込む風が、ガラス窓にかかった濃いクリーム色のカーテンを帆のように丸くふくらませ、その隙間から溢れ出る初夏の日差しが、教室じゅうを同じ、象牙の色に輝かせていた。カーテンの内側からしみ出た陽気が眠気となって教室中に瀰漫し、茶色い木の机も、板張りの床も、白く粉を吹いた黒板も、すべてがその中に溶け込み、一体をなしていた。私は時々、ふくらむカーテンの布の感触を左半身に受けながらも、拾った石に絵の具で絵を描いていた。なぜかその時、石に絵を描くのがマイブームだったのだ。

 教室には私以外の子供は誰も居ず、開け放たれた窓の外から、級友たちのはしゃぐ声が、ときおり雉の鳴き声のように鋭く、布越しに聞こえてきた。窓の外の、カーテンにろ過されてさざなみのように淡く耳に届く、5月のプラタナスの葉擦れの音、日差しに熱されて薫り立つ、校舎の木の床の匂い。

 私の席から10メートルほど離れた、大きくて固い木の教壇で、担任ー30代前半の、若い男の教師だったーが、ひとり、熱心に生徒たちの日記帳に返事を書き込んでいた。彼は決して私に話しかけない。こちらに顔も向けない。ただ、教壇の上に山のように積まれた日記帳の向こう側から、視界の端で、対角に居る私のことをときおり認めつつ、黙々と仕事にうちこんでいる。絵を描くことに没頭する私と、見た目だけは、まるきり同じように。

 職員室でそれをやらなかったのは、今思うと、毎日昼休みを一人で過ごす、私への配慮だったのかもしれない。彼は私の世界を壊さないよう、繊細に気を使いながら、たしかに、わたしのことを見守ってくれていた。

 教室を満たす静けさと、同じくらいの濃度で広がる、大人に見守られている安心感。そのふたつが、2枚の白い貝の殻のように私の体をすっぽりと覆い、外の世界から独立した空間を私の周りに立ち上げていた。

その時だった。今まで感じたことのない感覚が、私の中に湧き上がってきた。

私は、いま、この瞬間にここにいる自分のことを、幸福だ、とはっきりと感じたのだ。

「たった一人」の静寂がもたらす、確かな幸福。

 お腹の中に、それはネコのように居座って、ごろごろと喉をならし、自分がそこにいることを、確かに私に知らしめていた。

 黒々とした髪に、汗をきらめかせて、仕事に没頭する教師の大きな身体。手の中に広がる絵の具と、友好的な手触りの石。子どもたちの、同じく幸福な叫び声。それらの要素が、私の孤独な幸福を、確かからしめていた。私は一人でありながら、頭の先から、つま先まで、完璧に世界とつながっていた。

これは、たんなる後付けの記憶かもしれない。しかし私は今でも、そのときの幸福を構成していた、すべての要素を完璧に思い出せるのだ。

 

 オトナになった今、ものを書いているとき、ふと、あの時の感覚が身体の中に蘇ることがある。たったひとり、机の前で誰にも会わずに原稿に向かう時、視界があのカーテンのクリーム色で染まり、同じ色をした静かな幸福が、身体の中に満ちてくる。

 窓の外には、読者がいる。彼らはめいめいに、自分の人生に興じている。カーテンに遮られて顔は見えないが、しかし、私はたしかに、彼らがそこにいることを感じている。

 先生の代わりに、教壇の位置にいるのは編集者さんだ。決して細かな口出しはしないが、私が一人の世界からなにかをすくい上げて来た時に、まっさきに見る用意をしてくれている。その事が私をとても、落ち着かせる。

 作家と言う職業は、お金をもらって原稿を書く仕事だと思っていたが、今の自分はお金や名声のためではなく、あの時に感じていた孤独で静かな幸福を、自分の中に再現するために、ものを書いている。

 孤独は硬くて、なかなか溶けないバター飴のように、つねに口の中にある。

 人と騒がしくしているあいだは、舐めている事は、意識されない。

 けれど、ふとした瞬間に思い出す。

 思い出した時、以前は「ああ、私は一人だ」と落ち込んでいたけれど、最近はわりと平気だ。

 この口の中にある孤独が、幸福の源であると、確かに知っているから。


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※これは2016年2月発売の「PHPスペシャル」に掲載されたコラム「いつでも誰もが孤独を抱えている」の、迷った末にギリギリで差し替えたボツ原稿、つまり、別バージョンです。


ありがとうございます。