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《Pity(憐憫)》に串刺された7つの断片ーはあちゅうさん「通りすがりのあなた」

大学一年生の頃、六本木のキャバクラで予備校代を稼ぎながら仮面浪人をしていた。勤務終わりの午前3時、送迎車代の2千円をケチって日比谷線の始発を待つために交差点のアマンドで次の日の大学の課題をやっていたら、さっきまでお店に居たお客さんが、フラッと1人で入ってきた。

「奥さんが鬱病だから家に帰りたくない」とお店で嘆いていた人だった。

彼は私を見つけると一瞬、気まずそうな顔をして、次に「解散したけど、帰りたくなくて来ちゃった」と困ったような笑いを浮かべた。その顔はなんだかものすごく助けて欲しそうに見えた。けど10代のまだ頑なな心の持ち主だった私は「こんなところに来てないで、さっさと家帰って奥さんに優しい言葉の一つでも掛けたら少しはましになるんじゃ」と思ってなんだか無性にイライラし、
実際そう言うこともできたけど、その時の自分は何もかもが中途半端、どこの地にも足なんか着かない「あーあ、なーにやってんだろ、私」感に溢れた宙ぶらりんの子供だったから、ああ私がこのおじさんに言えることなんてなんにもないのだ、それどころか他人の人生に口出しする権利なんて、本当は誰もなんも持ったもんじゃないと思い、一瞬の営業スマイルを浮かべたあとは、結局始発まで互いに無言で過ごしたのだった。ふと周りを見渡せば、深夜のアマンドなんてそんな人ばっか、この「なーにやってんだろ、私」感と煙草の煙だけが離れて座る2人を取り巻いていて、そんな場所で他人に優しくない18歳の子供と、接待終わりのただの40代男性に戻った二人の間に何かが生まれるはずもなく、おじさんの分まで預けられたどうしようもなさを引きずりながら私は始発で大学に行き、盛り髪のために刺しまくったヘアピンがズキズキ痛むのを我慢しながら1限に出て、そのおじさんとはそれきりだ。

あのおじさん元気かなあ、奥さん病気治ったかなあ、なんでそんなことを今突然に思い出したかというと、ご恵投頂いたはあちゅうさんの小説「通りすがりのあなた」を読んで、その時の事がふと蘇ったから。

東京の街で、あるいは外国の街で、Pity(憐憫)という感情に串刺された7つの短編

この7つの短編を串刺しているのは、他者への「憐憫」である。

強い感情ではない。たわいもなく、すぐ忘れてしまいそうで、でもずっと心の底に残っている、柔らかな棘のような感情。

それぞれの物語の主人公は、ただ、世界を淡々と観察している。成長したり、苦しんだり、努力したりはしない。激昂したり、泣きわめいたりもしない。スノー・ドームの中の繊細なジオラマを覗き込むみたいに、そっと、周辺の人々を、彼女を取り巻く世界を観察している。

バルクオムの野口くんが書いていた通り、7つの物語のひとつひとつは断片的・Instaglam的で、ストーリーはないに等しいし、フィルタで粗くぼかされ、フェードをかけられた風景写真のよう。

それでもそこに切り取られているのは、慌ただしい生活に追われ、細い網目のようなつながりの中で大都市で生きる人間たちが、ふと空白の地帯に紛れ込んでしまった時、たまたまそこに居合わせた相手に対して感じる瞬間の《Pity》ー憐憫と優しさーである。


妄想に取り憑かれてしまったかつての恋人、失恋を慰めてくれる<妖精さん>によって引き出された記憶の中の"先輩"ーー主人公が彼らに対して感じる、ほんのり温かな感情が、画面の向こうから吹き付けてくる霧のように、読み手である私たちの心にもしっとりと沁み込んでくる。

そこにはまちがいなく、はあちゅうさんの他者への柔らかな眼差しが、主人公の目を通して確かに宿っている。

人生において、何の意味もないけれど、なぜかいつまでも覚えている出来事。その風景のそこに潜む、ひっそりとした感情を、彼女はすくい取り、行間にそっと挟んで差し出してくれる。


明日、はあちゅうさんのセミナー内で彼女と対談する。ありがたいことに100席近くが埋まっている。

私はネット上の彼女の発言に関心がないし、炎上にも興味がない。「ネット時代の新たな作家像を作る」ことにも全然関心がない。

ただ、同世代の創作者としての彼女が何を作ろうとしているのかには関心がある。

なので、今回トークの機会をいただいて、思う存分彼女と創作の話ができるのがすごく嬉しい。

きっと二人とも、得意とする分野が違っていると思うので、私は「クリエイティブライティング講座」を行っている経験から、どうすれば自分の創造性を育てられるのか、どうすれば自分がクリエイティブだと思える作品を書けるようになるのかについてお話しできればと思う。

はあちゅうさん、よろしくお願いします。

ありがとうございます。