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かっこよくて透明な怒りーイ・ランという作家 『悲しくてかっこいい人』

イ・ラン氏のエッセイ集「悲しくてかっこいい人」を発売されてすぐに読んだ。

私が最初に彼女を知ったのは、2017年の早稲田文学「女性号」に掲載されたエッセイ「韓国大衆音楽賞トロフィー直売女」である。
シンガーソングライターである彼女はアルバム「神様ごっこ」で韓国大衆音楽賞にノミネートされたが、アーティストの収入がすごく少ないことや、創作を取り巻く環境への疑問を呈する意味も込め、授賞式で授与されたトロフィーをその場でオークションにかけ、大きな批判に晒された。
彼女が受け取った批判の中には、およそ彼女が男性であれば受け取らないようなものもあった。彼女はツイッターでそれに対して抗議し、さらなる批判を浴びた。

それを読んで以来、私はずっと彼女に関する情報を追っている。(彼女が何者かを知るにはnoteに載っているインタビュー記事「Interviewイ・ランになるまで」がおすすめ)

彼女の書く言葉は力強い。

韓国の女性作家の書くエッセイや小説は、翻訳の特徴もあるだろうが、日本人女性の書くものよりも言い回しがストレートで、木槌で直接骨に叩き込まれるような響きがある。
このエッセイ集も、歌詞のような、素直な言葉のフラグメントの集合体だ。
彼女の言葉は透明な怒りに満ちている。
怒りというより、巨大なクエスチョンマーク。
自分が置かれている環境への、社会への、周囲への、「なんで?なんで?なんで?」

なんで男の子の、女の子へのおふざけを許容しないといけないの?
なんでアーティストは実際の収入にかかわらずたくさん儲けてると思われているの?
なんでこんなに家賃は高いの?

ただの日常を切り取ったエッセイではなく、切実に、「この国で、この社会で、生きる」ということに対する問いかけのよう。
韓国社会と日本社会は似ているから(男女平等指数が先進国で最低ランクなことも、子育てをめぐる社会問題も、「お母さん」がリスペクトされない風潮も、ポルノをめぐる環境も、男がSNSで女を罵る様子も)、それは否が応でも「もう一つの社会で暮らす”わたし”」の姿として目に入ってくる。
彼女の目を通して、私は韓国の社会をまなざすことができるし、彼女の声で、唇で、自分を語ることができる。

「作り笑顔といいね!の時代を揺るがす才能」

というキャッチコピーのとおり、この本を読んでもイ・ラン氏が笑顔でいるところは想像つかない。

お母さんのこと。弟のこと。
「わたしはどこで癒されるのだろうか?」という、ストレートな問い。

彼女の透明な言葉を読むと、人は簡単に”癒された”と感じないほうがよいのではないか、と思う。
パッケージされ、棚に並べられた「癒し」は、多くの場合、社会のなんらかの欺瞞を麻痺させるための「商品」だからである。

大都市に暮らす。ストレスがたまる。

女性差別をうける。ストレスがたまる。

そのことをごまかして、無かったように見せかける。そのための癒し。

作られた「癒し」なんかよりも、疑問をメッセージにして送り続けることの方が大事だ。
私だって、問いかけ続けたい。
ナイフのようにするどく社会に切り込みたい。

イ・ラン氏の言葉は、そう思っている人間の心を少しだけ救ってくれる。
お前はどうなんだ、と問いかける。それですべて。
アート作品とは、そういうものではないだろうか。

もちろん、そういった問いかけ以外の、アーティストとしての苦悩と日常を描いた部分も真剣ながらユーモラスで好きだ。
あがいているイ・ランさんの姿が見られる。

”わたしはアーティスト。だからすごいの。他人よりも優れてる、と長い間思っていた”から始まる
『申しわけありませんでした』という章はスリリングだし、そのほかの章も、読んでいるとアーティストとして生きる彼女の日常がまるで映画のように目の前
で上映される。

どんな強い言葉も、清流のようにすらすら出るわけではないのだ。

わたしももう、作り笑いをしなくてよいのじゃないだろうか。
女性の作家というだけで。

ありがとうございます。