短編小説 貝の棲み家


 名を呼ばれた気がして目を覚ますと、夕立と呼ぶには遅い雨が軒を静かに打っていた。

 頭痛の尾を引く頭をなるべく揺らさないようにして、浴室に向かう。湯船の底に沈殿した冷気を追い払うように、いきおいよく蛇口をひねって熱い湯を出す。急ぎで半分ほど溜め、身体を横たえると、疲れでこわばっていた皮膚が、だんだんと感覚をとりもどす。

 浴槽の縁に両足を投げ出し、伸びをした。風呂場の白い壁には、足先の向いたあたりにだけ、透き通るような淡い桃色の鮑の貝殻がまだらにちりばめられ、水面に反射した光を受けてきらきらと輝いていた。まるで湯船の中で人魚が尾を一打ちし、飛び散った鱗のようだ。

 

 果帆がこの家に越してきたのは、ついひと月前のことだ。

 祖父の代から続く、古びた日本家屋。結婚し、他所の土地に越した叔母が住んでいたのを引き継いだのだ。周囲に反対されずに済んだのは、服飾デザイナーとして独立したばかりで、25歳を半年過ぎた今も恋人はなく、しばらくは結婚する気配もないのを、ようやく親族一同が察したからだった。

 東京の中の窪、根津と千駄木と谷中がちょうど出会うあたり、戦後の焼け跡の煤けた残り香が今もわずかに漂う地域に果帆の家はあった。外からの客でにぎわうだんだん坂を一本脇に入れば、家々の塀に挟まれた小道は昼でも薄暗い。各邸の庭から突き出た樹木が路の上に枝葉をひろげ、時おり突き刺すような鳥の声が響き、黒い木立の中に消えてゆく。時代から取り残された一画、と、新しいもの好きの叔母は馬鹿にするように言っていたが、それでも彼女が長い独身生活の間、ひとときもここを離れなかったのは、10年前に死んだ祖父、つまり自分の父親を、彼女なりに愛していたからなのだろう、と果帆は勝手に思う。

 山陽の小さな海町から上京し、医師となった祖父はその家を自宅兼診療所として若い頃に建て、死ぬまでそこに棲んだ。遠方から親戚筋をたよりに祖父の家に嫁いで来たという祖母は、二女をもうけてからはなぜかそこを毛嫌いし、少し離れた地区に別宅を建てさせ元の家には寄り付かなかった。早い話が死ぬまで別居状態だったのである。果帆と、果帆の母親が育ったのもそちらで、けれども果帆は、工事現場の匂いが常に漂う小石川の新興住宅地の生家より、樹木のおかげでいつも鬱蒼と昏く、こじんまりとして狭く、薬品や包帯の匂いの漂う旧宅(と祖母と母は呼んでいた)のほうが好きだった。幼稚園や小学校の帰りに、たびたびわがままを言っては祖父の家に寄りたがり、その度に母は「果帆はおじいちゃん似だから」と困ったような顔をして、それでも最後にはつないでいた手を力なく離すのだった。果帆が、祖父とどう似ていたのか。今となっては母の真意も問いただせない。

 薄い胸の上を、天井から降るしずくが伝い落ちてゆく。窓の外では、6月の糸を引くような冷たい雨が、庭の樹木の上に降り注いでいた。赤土の塀の前、咲き始めた紫陽花の群れが、銀糸のヴェールを纏ったように濡れ光っている。夏が来るので、先日髪を短く刈った。男の子みたい、と叔母は笑ったが、恋人もいない果帆には他人に判断される性別が男だろうが女だろうがどちらでも良いことだ。

 建築士の叔母は、水回りだけは自分好みに改装していたらしい。風呂場の壁の、人魚の鱗のような螺鈿装飾も叔母のアイデアだ。かつてイランを旅した時、イスラームの寺院で見た螺鈿の柱があまりにも美しくて、いつか再現したいと胸に温めていたらしい。不揃いの貝の欠片たちは、表面の畝につややかな光を宿し、湯船の水面が揺れるたび、珊瑚の淡い桃から、魚の群れの鈍い青、真珠の白と、かたときもとどまらずに色を変える。その様子を眺めながら、次のコレクションのテーマは海の生き物にしよう、と果帆はぼんやり思う。

 湯船につかりながら、足の指先で、そのひとつひとつに触れ、数を数える。

 果帆の右足の甲は、ほんの少しだけ内側に曲がっている。そのせいで、注意して見なければほとんど分からないぐらいにだけ、歩く時に身体が傾ぐ。不憫に思ったのか、母は小学校の徒競走や山登りのたびに、果帆には無理をさせないよう、教師に念を押すのにやっきになったが、祖父は小さな果帆を膝に乗せ、

「果帆ちゃんはね、前世が人魚だったんだよ、陸に上がった人魚姫だからね、歩く時少し難儀するけれど、ごらん、今にいっとう美しいお姫様になるよ」

と歌うように言い聞かせた。 

 陸に上がった人魚姫は、いつか魔法使いの助けで一人前の人間になるのだろうか。今のところ、その気配はない。

 果帆の身体で、人と違う部分はもう一つだけある。思春期を越えてからますます顕著になったその「異変」を、今のところ、家族以外に知る者はいない。

 湯船の中で短い自慰をした。そのおかげで、少しだけすっきりした頭を軽くタオルで拭きながら湯着を纏う。一人の家は気楽だ。家族に気兼ねすることもない。人付き合いの苦手な果帆にとって、孤独はやさしいものだった。

 とん、と床を叩く音がしたので湯着のまま玄関に出向くと、黒いコートを着た男が土間に立っていた。雨にぐっしょりと濡れ、寒いのだろうか、昏い中でも分かるほど、顔色が悪い。灯のない玄関はガラス戸から差し込む外の明るさだけが頼りだ。水底のようなひやりとした闇が、湯にほてった身体を侵蝕する。

「こちらは瑞緒さんのお宅でしょうか」

 男は果帆が声を上げるより先に、祖父の下の名を出した。

「祖父は10年前に亡くなりましたが」

 果帆は男の顔を伺いながら言った。

 いきなり玄関に上がり込む無礼さとは裏腹に、男のものごしは丁寧だ。しかしどことなくぼんやりとして、魂のありかがわからないような表情をしている。

 祖父の旧知だろうか。それには年齢がそぐわない。目の前の相手は自分と同じか少し歳上ぐらいにしか見えないのだ。パーツのすみずみまで、綿密に計算されてつくられたような美形だった。髪を白金色に染め、目は透き通るような薄茶で、青白い顔色によく相応(そぐ)っている。長く垂らした前髪の先から、雨の雫がぽたぽたと落ち、ビスクのような頬の上で白く光っていた。遠い昔に会ったような気がするが、それがどこで、この男が誰なのか、果帆は思い出せない。

「ああ……」

 いまさっきこしらえたばかりの声帯をふるわせているような、ひよわな声が男の喉奥から漏れ出た。

「間違えてしまったのか」

 間違えた、の主語は誰なのか。状況から考えればまず男だが、なぜか果帆は自分に得手がないのを責められているような気がしてむっとした。

「ふたたび、同じ姿で会おうと約束したのに」

 何を言っているのかわからない。ふいに、自分が湯着のままであることを思い出して身が固くなる。早く帰ってもらおう。いくら女に見えないとは言え、一人の家だ。叫べば近隣には聞こえるはずだが、この激しい雨立ちの中では定かではない。自分が危ない目に合うことなど、今の今まで考えたこともなかったが、不安が見る間に胸を満たす。

 6月だというのに、男は長身をすっぽり包む分厚いウールのコートを着ている。さっき黒だと思ったのは、よくよく見ると、深い紫だった。雨を吸ってうっとおしいほど濃く変色している。胸元のわずかな毛羽立ちに、雫が絡まり、きらきらと輝いている。そこに意識を取られたわずかの間だった。ふいに、その雫の群れがすっと眼前に迫ってきた。

「ではあなたに、手当をしてもらいましょう」

 そう言うなり、たじろぐ間もなく男は果帆の両肩を掴み、息のかかる距離まで顔を近づけてきた。くちびるにあたたかいものが触れる。おどろいて男をふりはらおうとするが、男は身じろぎもしない。そのまま抱きとめられた。熱い肌に、ずぶ濡れのコートの冷たさが無遠慮に侵蝕する。湯上がりで頭がくらくらし、抵抗もできない。男の胸元に鼻先を埋めながら、ふいに、潮のにおいだ、と果帆は思う。

「あなたは先代に瓜二つだ」

 男は身を離し、果帆の身体の上で視線をすべらせた。

「体つきも、仕事の腕も」

「私は女ですが」

果帆は反論した。視線に射すくめられ、身体が痺れたようになる。

「それに、医者でもありません」

「そのわりにはずいぶんと立派な仕事道具をお持ちのようだが」

 果帆は男を突き飛ばした。胸のあたりを捉えていた男の視線がいちだん下がり、その言葉が指す意味を理解したのだ。

「帰ってください。祖父は亡くなりましたし、ここにあなたの用のある人間は住んでいないはずです」

「私はただ、手当てをしてほしいのですが」

「人を呼びますよ」

 果帆は毅然とした態度で言った。

「……分からないようなら、出直します、どうやらこの姿では、効き目がなさそうなんでね」

 そういうと男はきびすを返して雨の中に消えた。玄関はしんと静まりかえり、あとには気配もなにもない。外はひどい雨にもかかわらず、豆砂利の敷かれた土間の、男の立っていた場所には水の一滴も落ちていない。湯にのぼせて見た幻覚だろうか、と思うが、唇にはわずかにぬくもりが残っている。人肌よりも、いちだん低い温度の。

 

 子どもの頃の記憶の中で、祖父は優しく物静かな男だった。わずかに灰色がかった髪を横にながし、小づくりにつくられた端正な顔立ちにはその若々しい髪型がよく似合っていた。50を過ぎるというのに肌は陶器のように滑らかで、わずかに刻まれた皺さえ、少女のえくぼのような影をつくる。体格の大きな祖母とならぶと、背の低い身のこなしの丁寧な祖父のほうがまるで女役のような気がして、はっとすることがあった。

 祖父は果帆をずいぶんと可愛がってくれたが、ふいに、他人の顔になる時があった。2人きりでこの家で過ごしているとき、雨が降り始めると、祖父はしばらくのあいだは幼い果帆を膝の上に乗せ、遠く轟く雷鳴に耳を傾けているのだが、思い出したように「さて、そろそろ時間だ」と言い、果帆を奥の間に連れてゆく。自分は診察室に戻り、重たい扉をぴったりと閉じて鍵をかけるのだった。休診日だし、こんな雷雨の中、誰かが訪れるはずもないのではないかと果帆は幼いながらに思ったが、灯もつけずにぼんやりと坐ったまま動かない祖父のシルエットを扉の曇りガラス越しに見ると、なんだか邪魔をしてはいけないような気がして静かに奥の間に戻った。しとしとと、雨気を吸ってふくらんだ木の壁の匂い、軒先からしたたる雨雫の音に耳を傾けているうち、いつしか眠りに落ちているのだった。

 果帆が眠っているあいだに、祖父は一体、何をしていたのだろう。


 叔母が家を尋ねてきたのは、仕事が立て込み、それから2〜3日、ろくに外出せずに過ごしていた先だった。

 夕暮れの刻、焼けるような色の雲が遠くの空にたれこめている。このところ天気は降ったり止んだりを繰り返し、梅雨はなかなか退く気配がない。

「あなた、最近ろくに食事してないんじゃないの」

 居間に入ってくるなり、叔母はそう甲高い声で言った。家主である果帆に断りもせず、絣の着物を纏ったふくよかな体をふかぶかとソファに腰を沈める。ふっくらとした頬には白粉が塗り籠められ、そのせいでいっそう丸くなった顔が、電気をつけない居間の薄闇の中、昼行灯のように浮き出て見える。

 彼女のつっけんどんな物言いが、果帆は嫌いではない。和紙を一枚、顔前に挟んだような遠慮のある話し方を好む母よりも、ずっと自分に踏み込んでもらえているように感じるからだ。この叔母なら、秘密を知られても構わないと思う。

「……大丈夫、一応、死なない程度には食べてる」

 叔母は果帆の顔をじろじろと眺めたあと、声を一段低くしてこう言った。

「気をつけてね」

「え」

「こんな天気の日はね、出やすいのよ」

この家は、水脈の上にあるから、と叔母は一人ごちた。水脈、と言うのがなんのことなのか、単に辞書に掲載されている通り、地下を走る水のことを指しているのか、果帆にはわからない。

「でも、果帆ちゃんはこの家と相性がいいから大丈夫よ。私はね、失格。この家には合わなかったの」

 面白がるような含みを添えて、彼女は付け加えた。失格、というわりには、自虐の響きはない。

 果帆は思い切って聞いた。

「おじいちゃんってさ、この家で、死ぬまで一人で過ごしたと思う?」

「……さあね……わかんないわ」

 そう答える語尾は、わずかにゆらいでいる。彼女は知っているんだろうか。雨の日の診察室で、祖父が誰と話していたのか。

「ただ、あの人はものずき、だったからね」

 ものずき、とはどういう意味だろう。今日の叔母の言葉は、分からない事ばかりだ。

 叔母は、口に合うか分からないけれど、と言いながら嫁ぎ先の葉山で有名な和菓子処の水菓子を置いて行った。

 一応食べてる、は嘘だ。冷蔵庫の中には何もない。夕食代わりに果帆はそれをひとつ、指でつまんで口に含んだ。透き通った水皮の中、青紫の小花をかたどった餡はねっとりと甘い。

 親指と中指の先に残った粘りを、くっつけたり離したりしてもてあそびながら、他人の粘膜も、こんなかんじだろうか、とふと思う。触れたことがないので、想像するしかない。

 人との違いを意識したのは、女子中学校に進み、同級生たちがきゃあきゃあと、どこで仕入れたのか分からない卑猥なグラビアを回し読みしているのを覗き見した時だ。その股間はふっさりとした毛に覆われて平らで、果帆の持つかたちは、どの写真の女にも見あたらなかった。

 中高の6年間、日光アレルギーだと偽りプールの授業を欠席した。修学旅行も部活も、人に裸を見せることはすべて避けた。

 もし、あのおぞましい「症状」が、他人の目の前で出てしまったら。

 口には出せない欲望がはっきりと形を持つことー普通の女のように、脱がしてみないと分からない表れ方ではなく―が、果帆にとっては一番、恐ろしいことだったのだ。

 もうすぐ雨が来る。雨戸を閉めようとして、果帆はその手を、なぜか止めた。



 深夜、ふと目を覚ました。

 暗闇の中、何かが果帆の足先を口に含んでいた。

 実体はない。気配の塊のようなねっとりとしたものが、足元にうずくまっている。

 最初、足指をもてあそんでいた唇は、果帆が起きたのに気づくと、足の甲を伝い、膝まで這い上がってきた。両ふともものあいだをすべる舌は、芯をとらえそうでとらえきらない。おもわずうめくと、重たい何かが胸の上に覆いかぶさってきた。人の体温ではない。冷たいものが、ほかのあたたかな血潮の熱をうけてぬくまったような温度で、果帆の全身をつつみこむ。人間の皮膚とはちがうとろんとした感触に、思わず果帆の身体はひらかれてしまう。舌なのか指なのか分からないものが、果帆の、ひだというひだをくまなくうらがえし、なぞり、撫で上げる。触れられた箇所から全身へと、甘いしびれが波紋のようにひろがってゆく。

 持ち上がった果帆の中心を、何者かの手がとらえた。はじめての感覚に全身が粟立つ。熱い襞がからみつき、そのまま、ゆっくりと根元までうめこまれてゆく。そのうち、波のようにゆったりとした動きで抜き挿しがはじまった。熱くねばっこい谷間が果帆を擦り上げ、そのたびに味わったことのない快感が、腰から全身に打ち寄せる。シーツの規則正しく擦れる音は、やがて潮の満ち引きの音に変わった。海底のような暗闇の中、互いの肌の温度以外に、果帆と相手を隔てるものはもう何も無い。身も、脳も、骨も、とろけるような快楽が、果帆の身体じゅう溢れかえる。

 雷鳴が家全体を包み込み、外の世界を遮断する。すべてから隔離された空間で、果帆は思わず意識を身体から離す。その隙間に、男の轟くような低い声が入り込む。ほらごらん、やはり、先代と瓜二つだーー。

 そのうち、快楽の起点の、その下の窪の中にまで何かが入り込んできて、果帆は気を失った。

 


 家に久しぶりに人間が入ったのは、それから2週間後のことだった。あまりにも雨漏りがひどいので、修繕を頼んだのだ。やって来た舟木という男は、祖父の代からの付き合いで、家の用事のほかに、樹木の手入れも頼んでいる。無駄口を叩かず手際良く片付けてくれるため、近所でも評判の職人だった。

 この日はめずらしくからりと晴れ上がった。夏のような日差しが、庭に濃い影を落としている。

 作業が終わったところで、舟木は果帆を呼んだ。

「これが」と、両手のひらに収まる大きさの、黒い繻子の包みを手渡す。結び目をほどくと、中から標本箱が現れた。樫だろうか。持ち重りのする白木の正方形の箱に、薄いガラス1枚をへだてて、白い巻き貝がおさまっていた。人の拳くらいの大きさだ。透き通るような薄い殻に、ほんの一刷毛、掃いたように、かすかな青みがかかっている。日に当てると、内側からぽつぽつと、小花のような紫の模様が、青の中に浮かび上がった。見ると、外側の一部がほんの少しだけ欠けている。

「梯子をかけるために動かした、書棚の裏から出て来ました。きっとネズミにぶつかられて、棚の上から落ちたんでしょう」舟木は淡々と推測を述べた。

「祖父のでしょうか」

 わずかに残る無精髭をこすりながら、舟木はうなずいた。

「リュウグウオキナの亜種ですな」

「リュウグウオキナ?」

「そういう名だと、あなたのおじいさんに昔、教えてもらいました。深海に住む貝の一種です」

 目を細め、遠い記憶を引き出すように、老人は滔々と語り出す。

「日本近海では、太平洋の北の方に棲んでいるようですよ。貝類というのはほとんどが雌雄同体です。生殖の時のみ、相手に合わせて雄雌どちらかに分かれる。産卵を終えたあとは、またもとにもどって別の相手を捜す。そのほうがより子孫を残すにふさわしいと、遺伝子を司る神がお考えになったのでしょう。けれどもこの貝の面白いのは」

「一度生殖した個体同士は、子を産むとき以外は仲睦まじく絡み合って過ごす そうですよ。一度相手を決めたら互いの殻にぴったりと吸い付いて離れない。いろんな相手と繁殖したほうが、種の保存には有利であるにも関わらず、です。こればかりは、神も手出しできない、生き物それぞれの好みなんでしょうな」

 そういって舟木はガラスの上から巻貝の輪郭を懐かしそうに撫でた。まるで、祖父が蘊蓄を垂れる様子をまるごと思い出すように。彼は、祖父が上京し、このあたりに下宿していた頃からの知古だ。標本を片手に、どれだけむつまじく語り合ったのか、果帆にはぼんやりと、若い二人の輪郭がそこに見えるような気がした。そういえば、舟木には子がいない。生涯独身で通すつもりのようだ。

 果帆は、意を決して舟木に尋ねた。

「生きていたころの祖父は、人間でないものを見たり聞いたりするようなたちではありませんでしたか。何か……不思議な体験をする、とか」

 2週間前の記憶が瞼の裏側に蘇りそうになり、果帆は慌てて、不思議な、と濁した。そんなことまで、この老人に打ち明けるのはまずい。しかし舟木は、まるでこの時が来るのを知っていたように、ゆらぎのない口調で果帆に言った。

「あなたのおじいさんは、海辺を旅するのが好きでした。その時にね、なにか拾って来たのだと思いますよ。なに、海の生き物が地上に上がるのは、我々が思う以上にせんないことです。人間だってそうじゃありませんか。水がある処なら、彼らはどこにでも行きます。妖になったものならなおさら」

 それは、ひととちがうかたちをしているからでしょうか、と思わず果帆は聞きそうになる。

 これまで、人に知られるのがおそろしく、努めて自分の性を忘れようとしてきた。思春期以降、男女限らず思いを寄せて近づく者もあったが、衣服を脱いだあとのことを考えると、おそろしくて、ただ無言でつっぱねるしかなかった。果帆はまだ、このことを、どう扱っていいのかわからない。心だけが段梯子をふみはずしたように、15歳のころのまま、取り残されている。

 舟木は黙って果帆を見つめていた。そのまなざしはあたたかかった。しばらくののち、彼はぽつりと言った。

「かたちとしては愛せなくても、血の連環の中で自分と同じ思いを持つ人間がいた、そう知れるだけで、ちがうようにとらえなおすことはできませんか」


 コートの男が尋ねてきたのは、それから3日後、またも雨の降る日のことだった。

「これは、あなたのものでしょうか」

 そう言って、果帆は標本箱を差し出した。殻の欠けは仕事で使うビーズ細工用のボンドで修理してあった。

 夕立と呼ぶにはやや細すぎる猫毛雨が、うっそりと頭をもたげる紫陽花たちの上に力なくけぶっている。もうすぐ梅雨も終わりだろう。

 男は恍惚とした表情で箱の中の貝を見つめ、受け取った。

「棲んでいた海を追われてね。我々の世界にも、いざこざはあるんですよ。そんな時に行きずった―ああ、こんな言い方は失礼か、行きがかったおじいさんに、身体を預けたのです」

「祖父が預けたのではないですか」

「どちらでもいい。私は雄の姿のほうが好みだから、あなたのおじいさんの時もこの姿でしたが、相手の好みに応じて女もやれます。このあいだのようにね」

 いちいちつっかかる言い方をする男だ。果帆は聞き流すことにした。

「愛した男が先日死んでね、そろそろ元の姿に戻りたくなったんですよ。けれども欠けた身では溺れてしまう。だから、手当を頼みに来たんだ。あなたを一目見て、これはいい、と思った。女でも、ごく稀に腕のいいのがいる」

 男は薄い唇を引いて、笑みを作る。2週間前の夜、瞼の裏で見たものが記憶の底から浮上する。

「ああ、これは返します」

 そう言って、男は果帆の目の前で、標本箱の両側に付いていた螺鈿の飾りを指でひねって見せた。おどろいたことに、細工を指でずらすと、箱は音もなく縦に2つに分かれた。2重底になっていたのか――

 出て来たのは、紫の繻子の小さな袋だった。銀色の江戸紐で口がしばられている。だいぶ古いもののようだが、質がいいのか、布地も紐もつややかな光沢を放っている。

 果帆は紐をゆるめて中身を取り出した。

「これ…」

 出てきたのは、黒ずんだ臍の緒だった。大事そうに、綿で包まれている。一緒に入っていた紙には、果帆の生年月日が書かれていた。

「あなたのですよ。おじいさんはあなたが生まれたとき、さぞかし嬉しかったでしょうね。彼の役目を受け継ぐだけの容れ物を、あなたは持って生まれて来た。魂のかたちは、からだとちがって複雑なんだ。交配したからといって、引き継がれるとはかぎらない。きちんと遺すのはむずかしいんだ」

 祖母はきっと、祖父の男でない部分を嫌悪して、この家を出たのだろう。相手が自分よりも女として満たされる方法を知っていたとしたら、拒否されていると感じるのも無理はない。祖父の孤独が、ふいに目に見える気がした。

「遠い昔、私たちの祖先である両性具有の神は、死者を蘇らせることも、殺すことも自在にできたそうですよ。人ならざる姿かたちを持つ者は、人ならざる能力を持っている。誇っていいんだよ、それは」

 そう言うと男は果帆に口づけて、消えるように去った。

 どこかで雷鳴の音がする。それは潮騒のようにあたりに満ちて、どれほど遠くで鳴っているのか判断がつかない。あるいは、果帆の耳孔の中、遠い日に閉じ込められた記憶と同じように、ひっそりと鳴り響いているだけかもしれない。

 好いた相手が死んで、男は海にもどった。

 自分にもそんなふうに、ぴったりとかたちの重なる相手がいるのだろうか。開け放たれた門の向こうを眺めながら、果帆はぼんやり思う。

 その答えは、今は、まだ、分からない。


(了)


※この短編は、西崎憲さんの小説教室で課題として書いたものです。

課題テーマは「多様なセクシュアリティの許容/反性器主義/繰り返し」でした。(むずかった……)

#海

#小説

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小野美由紀

短編

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