アイドルと「学校」 ~育成型アイドルの一形態~(2011.10)

  以下は、2011年発行の同人誌「甘噛み」Vol.2に寄稿した文章に若干の変更を加えたものです。グループ名等、当時(2011年10月)の状況に従った記載については、現在と異なる場合がありますのでご注意ください。(この文章は投げ銭型にしております。)


  アイドルブームである。AKB48に触発される形で、多種多様なアイドルが、首都圏を中心としながら、一方で北海道から沖縄まで広く乱立をしている。その中で、「学校」をコンセプトとするアイドル(以下「学校型アイドル」と表記)が一定数存在する。当コラムでは「学校型アイドル」について取り上げ、「アイドル」と「学校」の関係について若干の考察をしたい。

  まずは該当するアイドルを思いつく限り列挙してみよう。「さくら学院」、「私立恵比寿中学」、「アイドルカレッジ」、「スマイル学園」、「放課後プリンセス」(以上首都圏)、「アイドル教室」(名古屋)、「リリシック学園」(大阪)、「青春女子学園」(福岡)。これらのアイドルグループは、比較的明確に「学校」という設定を打ち出している。単に制服を衣装としていたり、楽曲の歌詞が学校を舞台とした世界を描いているアイドルはAKB48を代表として他にも数え切れないほどいるだろうが、当コラムでは扱わない。(また、魔法学院という設定の「アフィリア・サーガ・イースト」は特殊な例なので除外する。) 

 

学校というコンセプト

  具体的に「学校型アイドル」について見ていこう。「学校型アイドル」とは何か。それは、世界観として学校を取り入れ、そのアイドルが醸す現象全体を学校を舞台とした出来事のように演出をするアイドルのことである。手っ取り早く確認するには、それぞれの公式HPやブログ等を見てみるとよい。

  先述した代表的「学校型アイドル」のHPの多くに見られる特徴を挙げてみよう。まずデザインとして、黒板を模したものが見られる場合が多い。メニューには学校関係の言葉が並ぶ。「生徒紹介・生徒名簿」(プロフィール)、「時間割・行事予定・授業日程」(スケジュール)、「学院日誌・学級日誌」(ブログ)、「視聴覚室」(動画)、「写真部」(画像)、「購買部」(グッズ)、「入試情報」(メンバー募集)などなど。校章や、校訓の存在するアイドルグループもある。

  実際の「学校型アイドル」の活動としては、ステージでは基本的に制服に見える衣装をまとい、「学校行事」として「授業参観」や「遠足」や「体育祭」があったりする。「生徒」には出席番号が割り当てられる場合もある。 以上、アイドルの活動が学校の活動かのように模されているアイドルを「学校型アイドル」と呼びたい。 


 「学校型アイドル」のメリット

  なぜ「学校型アイドル」が一定数存在するのか。これには多くの要因が考えられる。 一つ目は、無理のない設定である上に、過剰に縛られることのない自由度の高い設定であること。そもそも、「学校型アイドル」のメンバーは日常においては実在の学校の生徒である場合が多いし、芸能スクールの生徒でもある。ということは、学校という設定は、設定(虚構)でもあり、現実のものでもある。メンバーは無理に何かを演じるまでもなく、設定に乗っかっていくことができるはずだ。(例えばこれと対照的な例として、「桜組2期生」というアイドルを見てみるとよい。「忍者」という設定、そして曲の中には「忍者がメイドに化ける」という設定の曲さえある。当然、無理がある。)

  また、「学校」という設定は、大きな枠を定めるものでしかなく、その内部で多彩な活動をする余地がある。これについては、「学校型アイドル」のいくつかで派生ユニットを構成していることでも分かる。「部活」や「係」と称して、グループ内でチームを作ったり、ユニット曲を出すということができるのだ。これは「さくら学院」の活動を見てもらえば分かりやすい(重音部、バトン部など)。また、リリシック学園のように、「学校行事」として「体育祭」をやるという例もある(当然体操着姿が拝める)。たとえば「水泳の授業」をやれば水着でもいいわけで、「学校型アイドル」とは言え、衣装は制服だけに縛られるわけではない。学校という大きな枠の中身として、なんでも入れられる自由さがあるのだ。

  二つ目は、学校に通うことは誰もが経験しているため、分かりやすく、誰にでも受容しやすく、また様々な感慨を呼び起こすものでもあるという点で、普遍性のある設定であるということだ。特に大人にとっては、自分が通ってきた道だが、今はもう手に入らない過去として郷愁の対象ともなるだろう。昨年来(2010年~)、学校を舞台とした、顔を見せない少女の写真集の出版が相次いでいる(代表的なものは『スクールガール・コンプレックス』青山裕企)が、これは過去への郷愁と、理想像の少女を求める欲望を満たすものであっただろう。「学校型アイドル」についても、同様のことが言えるかもしれない。

  三つ目は、未熟であったものが育っていくといった、努力の過程を重視する文化との親和性である。「学校型アイドル」に限らず、現代のアイドルの大きな流れとして、「育てる」ということが挙げられる。AKB48における総選挙のように、自分たちが支えてトップアイドルを目指してもらう、あるいはスキルアップさせるという過程の部分を消費対象として売り物にするアイドルが多い。たとえば、アイドルカレッジのHPには、「“未来のアイドルをみんなと育てていこう”をテーマに、芸能活動をしていなかった女の子たちを、イベントを行いながら成長させていくプロジェクトです。」とある。未熟なものをファンが応援して育てていくという「育成型」のアイドルを創っていく時に、まさに人を育てるための施設である「学校」という設定はふさわしいものである。


学校型アイドルと現代日本文化

  上記三点目について少し掘り下げよう。最近K-POPアイドルの人気の中で、韓国のアイドルと日本のアイドルを比較するということもよく行われる。しばしば指摘されるのは、韓国のアイドルは完成度が高く、日本のアイドルは未熟さを売りにする、ということだ。この点に関しては『K-POPがアジアを制覇する』(西森路代著)で興味深い日韓文化の比較がある。西森氏は、韓国で高校野球の競技人口が少ないことを例として挙げた上で、韓国には「結果がすべて」という風潮があり(好成績の期待できない・将来性のない活動はしない)、一方日本は「がんばっている姿」そのものを重視するとし、「この日本の部活文化が、芸能界にも独特の影響を与えているような気がしてならない」(P153)と述べる。韓国における高校時代の部活やサークル活動の経験率の低さは、『趣味縁からはじまる社会参加』(浅野智彦著)においても指摘されている。浅野らが行った「趣味縁調査」によれば、高校時代の部活やサークル活動について、日本では79.1%が経験あり、韓国では42.2%が経験ありという結果であった。

  以上の日韓文化の比較から、日本における(未熟な)過程の重視という文化的側面と日本のアイドルの特徴とは無関係ではないと言いたくなる。そして日本における部活文化、つまり学校におけるコミュニティの形成の体験が、人々に「学校型アイドル」に対する愛着を持たせる要因のひとつではないかと問うこともできよう。

  さらに別の視点を導入してみよう。太田省一は『アイドル進化論』の中で、近代社会における学校という制度や、社会の仕組みの複雑化によって、「ひとは、いつも途上にある者として、生涯じぶんをまるで通過儀礼中の存在であるかのように感じるという、奇妙な社会」(P272)ができあがるとし、「アイドルとは、社会が学校化し、<若さ>が義務になってしまうような状況の中で、<若さ>を権利として再発見させてくれる存在であるようにも思われる」(P276)と述べる。つまり、常に学ぶことが求められ、より成熟すべき存在として義務づけられた人間を解放する装置としてのアイドルという見方である。

  こうした視点からすれば、アイドルが世界観として「学校」という設定を好んで採用することは合理的と言える。社会が学校化し、社会という「義務としての学校」に生きる人々を救うためには、アイドルは「権利としての学校」に住まうべきである。先ほど、学校は郷愁の対象と述べたが、学校は現代社会の比喩でもあるのだから、大人になっても決して単に過ぎ去った対象としてのみ現れるものではないのである。しばしば不自由感・義務感にとらわれがちな我々は、「学校」という自然な設定の中で主体的に能動的に努力をする(ように見える)アイドルを見ることで救われる、というわけだ。


努力重視の功罪

  「学校型アイドル」は、以上のように現代的な、そして日本的な文化と親和性の高い存在であり、未熟な過程にある女の子が努力し成長する様子を応援するものである。しかし考えてみると、この条件は人前でパフォーマンスをする存在として、非常に緩い。すなわち、未熟者が努力するだけでいいなら、(もちろん少なからずビジュアル面の線引きはあるにせよ、)誰でもアイドルになりうる時代ということでもある。実際、「私立恵比寿中学」は「キングオブ学芸会」と言われ、パフォーマンススキルの低さに自覚的である。未熟だけど頑張るという過程が重視され、結果が相対的に求められない世界は、現実の社会で苦しむ人々を解放する機能も果たすであろうが、一方で頑張るという「免罪符」の下での(ファンおよびアイドルの)現実逃避(甘え)ではないかという非難も呼び起こすかもしれない(しかしもちろんアイドルは、スキルの良し悪しと別の側面で激しい生存競争に晒されていることも忘れてはならない)。そしてこの「努力・頑張る」問題は、震災後の「がんばろう日本」的な言説をめぐる論争を見るにつけ、やはり日本文化に通底する問題でもあろうと思う。


「アイドル」という「学校」

  現代のアイドルが過程を売りにする以上、アイドルがいつかアイドルでなくなることはほとんど不可避である。それは、学校をいつかは卒業しなければならないことと同じだ。だから、いずれにせよ「学校型アイドル」は期間限定のものである。「さくら学院」は「成長期限定!!ユニット」ということで、原則としてメンバーは中学3年の3月でユニットから卒業することになっている。「リリシック学園」はHP内に、「22才になる年の3月末で卒業です」とある。このように明示していなくても、「学校」という設定上、「卒業」ということは当然のようにファンの間でも想定されるだろう。(私立恵比寿中学は楽曲『永遠に中学生』の中で、「おばあちゃんだって中学生…高校生だって中学生」と歌い、メンバーが高校生になっても「私立恵比寿中学」での活動をし続けると宣言する。しかし一方で、中学生という「若さ」が重要な価値を持っていて、それが過ぎ去ってしまうことへの切なさも同時に感じてしまう曲である。「永遠に中学生」とは言うけれど、実際、厳然ともう我々は中学生ではないのだし、どんな(生身の)アイドルも年をとるのだ。)

  したがって、アイドルファンは決してアイドルの世界に安住し続けることはできない。どこかで別れや喪失を経験しなければならない。アイドルに対して恋愛感情を持つファンも、成長を見守っていたファンも、恋人や家族との別れかのごとき経験をしなければならない(これはアイドルファンにとって決して大げさな表現ではない)。長らくアイドルファンである筆者自身のあくまで個人的経験を言えば、「愛」やらまともな人間的感情を持ち合わせなかった自分が、まっとうに他者への関心や思慮を持つに至ったのは、あるいは多少なりとも今を大切に生きようと思えたのは、こうしたアイドルをめぐる経験によってであった。だから、「アイドル」を愛でるという経験そのものが、アイドルファンである自分にとっての「学校」であったのだ。

(この文章はこれで終わりです。もしこの文章が面白かった等、お役に立てたようであれば、ぜひ投げ銭してやって下さい)

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