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「非現実」へのin/out

フランクルの『夜と霧』を読んだ。前回は高校生か大学生の頃だったか忘れたけど、自分なりにこの本のテーマ、みたいなものが見つかった気がする。読めば読むほどなるほど、と心当たりあることが増えていく。間違いなく自分が持っている本を1冊しか持ち出せなかったら、迷わずこの本を挙げる自信がある。まずざっくり総括して自分なりに見つけたテーマ、とは「世の中的な流れから浦島太郎状態になってしまった時の折り合いの付け方」ではないかということ。

著者言う「極度の緊張状態」に置かれると、人間は今まで何ともなく過ごしてきた日常をあれこれ夢想する。これは強制収容所だけでなく、「自分の意志ではままならない現実」において妄想している状態ともいえる。何気ない瞬間も美しい思い出に変換し、保存し、無限再生する。ぽわぽわと○○あればなあ、と事実に(こうあってほしいと願う)妄想が回を経るごとに上乗せされていく。ただ、これは「その人の人間らしさ」を極限状態でも保てる術なのだ、とフランクルも指摘しており、私も同感だ。心ここにあらず、というか肉体はままならない現実にいるものの、意識と魂は「理想的なあちら側」にいる、といえよう。

ただ、「極度の緊張状態」から解放されると、人は一気に世の中の流れに放り込まれる。すべて自分の意志でできる状態なので妄想は必要なくなり、日常が戻ってくる。そうすると、想ったより大切な人のリアクションが薄かったり、現実のシビアさに迎え撃たれたりして、幻滅したりする。いや、感情よりも前に余りにもなじみ深いことから長く離れていると、(そもそもこれなんだったっけ?)と認識から始めなきゃいけない。

本を読みながらずっと何かデジャブを覚えていたが、はっきりと、一連の現実の流れと人間の心情の起伏を顕著に体験した出来事を思い出した。学生時代にたった一年間とはいえ、アメリカに留学していた時のことだ。ちょうど帰国するときが同期が就職活動真っ最中で、特に後者の「すっかり状況が変わったが元居た環境に戻る」ところで同じような経験をした。Re-entry、と言うが門を改めてくぐりなおしたら、なんじゃこりゃ、といろいろ浦島太郎として目を回していたこと。認識をしたあとで、やけに1年延びた理由を面接で聞かれるなとか、履歴書に写真なんで貼らなきゃいけないんだろうとか、いろいろ感情が湧いてきた。『夜と霧』の状態に寄せて考えると、アメリカ滞在中の日々はままならない緊張状態、ではなく「非日常な現実」でああり、日本にいる友人や大学の仲間どうしてるかなーと、今まであった一コマに色をつけて妄想していたことが、なんとなくリンクしていると感じた。

次に起こる環境の変化までに身を置く時間の長さによって、無情に流れていく現実と人間の感情は寄り添ったりしなかったり波があるのだなと気づきを得られた。


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