エピソード2「言葉と主観と音」

僕の両目と両耳は


一切の機能を失っていた。


────ような感覚に襲われた。
そう言った方が正しい。
でも、暗くなってから起きた時はいつもそうだ。
開けた瞳は暗闇に慣れず、耳も寝ぼけるのか音にあまりいい反応をしてくれない。
寝た状態のまま何度か瞬きをしてみると、だんだん目が暗さに慣れてきて、天井の輪郭がうすぼんやりと見えてきた。
聴覚もやっと働く気になったのか、家の少し先にある道路を走る車の音を捉えた。

「………………」
目に見えるこの景色だけが、耳に届くこの音だけが、肌に感じるこの温度が、紛れも無く「世界」だ。
それなら。

目を閉じて、耳を塞いでみる。
世界は瞬時に、疑似的に暗闇になり無音になる。
感じるのは、肌に伝わるものと匂いだけだ。
人間は、情報の90%を視覚に頼っているというけど、目の見えない人の世界はどんなものなんだろう。
主観てどんなんだろうか。
更に耳が聞こえなければ、当然音も聞こえず、喋る事もままならない。
五感のうちの二つを奪われてしまったら世界はどうなるんだろう。
20年以上、至極健康に生きてきたこの体では、やっぱり想像しにくい。
……失礼だろうか。こういう探求心は。

「変わり者ですか、そうですか」
盛大な独り言を呟いて、目をまた開いて、両手を耳から外した。

「それじゃあ普通って何だよ」
思わず、相手もいないのにグチる。
自分は、多分イレギュラーなタイプの人間なんだろう。
そう自分でも思ったりするけど、じゃあそもそも普通って。
ていうか、自分の中じゃこれが普通なんだよな。うん。
なんて、言い聞かせてみるのもいつもの事だけど。
例えば時間て何だとか。
例えば昨日と今日の境目とか。
例えば自分て何だとか。
僕からしたら、何で皆気にならないんだろうと逆に不思議なくらいだが。
大抵の人間は、僕のそんな疑問をおかしな表情で見てくるから、いつしか一人で、いつからか独りで、取り留めなく考える事が半ば日課になっていた。
昼間の彼は数少ない、本当に数少ないこの変わり者(不本意だが)の近くに居てくれる人間だけれど。
聞かないふりをして封じ込めている心の一番底に居る自分自身は、いつでも言う。
「まだまだ足りない」と。
「『同じ人』に出会いたい」と。

本当に我ながら馬鹿な事を言うもんだ。
心底願った事は、神様は叶えてくんないんだ。

お腹へったから家を出た。
鍵も財布も何も持ってない事に気付く頃には何が食べたいかはまだ決まらなかったからどうでも良くなって歩いた。

夜は歩きやすくて良い。

目に優しいしさ。
夜ってだけでドキドキするから好きだ。
何より朝は夜になって夜は朝になる。
こんな絶対的なまでの安心感は一生出会えない。
一生離れないから。
信頼の置ける環境だ。
日常じゃなくて。終始。
暫く歩いたが一向に疲れなくてもっと歩いた。


知らない道を歩き過ぎたか。
細い路地の終わりがここからでも見える。
引き返しても良いんだが、どん詰まりの右手には小さな公園の気配があった。
何となく名前だけでも知っておきたい衝動に足を奪われて進んだ。

しかし気付いた時には遅かった。
そこには先客がいて今まさに目が合って離せなくて居る。

真っ白い猫を抱いた少女。
その視線を外した空には
満月がいつもより大きく浮かんでいた。




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