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ソジャーナ・トゥルース 11さらなる試練

 アメリカの通貨がドルと制定されたのは1792年。イザベラが少女のころは、それまで使われていた英ポンドもまだ流通していたようです。

 今でいうところの四文字言葉は、神への冒涜と考えられていました。今でも子どもが汚い言葉を使うと、厳しい親は「石鹸で口を洗うよ」と叱ります。

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 ニーリー氏のところに来て数か月たったころから、彼女は父親を自分のもとに寄こしてほしいと神に懸命に祈った。そうして祈り始めるやいなや、父の来訪を確信して、その姿が現れることを待ち望んだ。果たしてバウムフリーは間もなくやって来て、娘をおおいに喜ばせた。

 彼がいる間、イザベラには自分の心に重くのしかかる悩みを打ち明ける機会がなかった。帰るときになってイザベラは門のところまで父を送って、やっと胸のうちを吐き出すことができた。イザベラは父に、今より楽な別のところに行けないかと尋ねた。 

 奴隷はどの主人が比較的奴隷に優しいかという情報を交換しては、お互いに助け合っていた。自分の主人が寛容だった場合、友人を推薦して買ってもらうよう頼んだのだ。奴隷所有者も、自らの方針からか少しは人間らしさが残っていたものか、自分の奴隷を売り払う場合、買い手がきちんと代金を払うことがわかっている限りにおいて、奴隷自身に次の行先を決めさせることがあった。

 バウムフリーは、自分にできるだけのことをやってみると約束して帰っていった。雪が溶けるまで(父が来たときには雪が積もっていたから)、毎日イザベラは父と別れた場所に行き、父が雪に残した足跡をたどっては「神さま、どうか父が私に別のもっとましな家を探してくれるようお助けください」と祈り続けた。

 長い時間が経ったあと、スクリバーという名の漁師がニーリー氏を訪れ、イザベラに「家に来るか」と声をかけた。イザベラはついに神が自分の祈りに応えてスクリバーをつかわしてくれたと疑わず、「はい」と即答した。二人はすぐ出発して、馬に乗るスクリバーについてイザベラは歩いた。彼はイザベラの父の薦めで、彼女を105ドルで買ったのだった。住まいはやはりアルスター郡だったが、ニーリー氏宅からは5、6マイル離れていた。

 スクリバーは漁業のかたわら、自分と同じ階級の労働者のための旅館も経営していた。彼の一家は粗野で教育もなく、話す言葉はきわめて野卑だった。しかし総じて正直で思いやりのある、親切な人たちだった。

 彼らは大きな農場も持っていたが、そこはほとんど手つかずのまま、もっぱら漁業と旅館経営に専念していた。イザベラは当時の彼らとの暮らしぶりはなんとも説明しがたいという。いわば、野外を中心にした野性的な生活だった。彼女の仕事は、魚を運び、トウモロコシ畑にクワを入れ、ビールを作るための木の根やハーブを森で取り、必要があればストランドというよろず屋で糖蜜や酒を買ってきたりと、本人の弁によれば「あちこちかけずりまわる」ことだった。人間らしい暮らしというわけではないが、困難や恐ろしい目には合わなかったので、当座の間イザベラにとっては十分だった。

 ここでイザベラは周りに悪い言葉を教わり、まともなふるまいを身につける代わりに罵詈雑言を覚えてしまった。イザベラが神を冒涜する言葉を初めて口にしたのはこの時だ。スクリバー家で一年半ほど過ごしたあと、彼女はジョン・J・デュモントという人物に70ポンドで売り渡された。1810年のことである。デュモント氏は前の二人の主人と同じ郡のニュー・パルツという町に住んでいた。イザベラは1828年にニューヨーク市により解放される少し前まで、氏のもとで暮らした。

11さらなる試練 了 つづく

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