宇都宮敦『ピクニック』について考える

2018年11月27日、現代短歌社から一冊の歌集が出版された。その歌集とは、宇都宮敦の『ピクニック』である。週刊少年ジャンプと同じ大きさの判型で、表紙は真っ黄色なこともあり、物理的にもすごく存在感のある歌集だ。宇都宮敦の作品は、枡野浩一の小説『ショートソング』に連作が引用されたり、第四回歌葉新人賞の次席に選ばれたりしているだけでなく、現代短歌の重要なシーンを担うもののひとつとして、ありとあらゆるところで引用がなされてきたから、多くのひとがそうであるように、わたしもこの歌集が出版されるのを本当に心待ちにしていた。10年待っていた、といっても過言ではない(いやわたし歌歴5年なんでちょっと過言なんですが)。通販限定のサイン本を手に入れ、店頭限定のエッセイも手に入れ、ほくほくした気持ちで中身を読む。「連作が解体されてウィークエンズっていう大きな一連になっている!」とか、「代表的な連作は『拾遺』って形でのせられてる!」とか、「ここの語尾ちょっと変わってる!」とか、「歌の順番が入れ替わってる!」などなど、宇都宮敦の大ファンとして多くの作品を読んできた人間でも楽しめる要素がいっぱいあって、そしてもちろん、めくってもめくっても歌自体が期待を裏切らないおもしろさで、すっかり大満足してしまった。しかし、この歌集を周囲の人々が一様に「明るくてポップ」なものとしていることに、わたしは少し違和感を覚えた。確かに明るくてポップなのは間違っていない。でも、わたしは宇都宮敦の作品を読んでいると、いつも何故か泣きたくなってしまうのだ。この泣きたさは、いったい何なのだろう。最初はただ単にいい歌に出会った俗にいう「尊い」という感情から泣いているのかなあと思っていたのだけれど、どうやら違うようだ。今回はそのことについて、ちょっと書いてみようかと思う。

ねておきて「ねてていいよ」と声がしてねたふりをする 鉄橋をいく

『ピクニック』の中でわたしが二番目に好きな歌を引用した。電車に乗っているのかな、と思う。主体(ぼく)と「ねてていいよ」の声の主(きみ)は並んで席に座っている。わたしはなんとなく席はロングシートで、なんとなく車内はがらがらで、なんとなく遊んだ帰りの夕方っぽいなあとイメージしたのだが、どうだろうか。「ぼく」がうたたねから目覚めると、「きみ」に「ねてていいよ」(「わたしが起きて寝過ごさないようにしておくから大丈夫だよ」程度の意味だろう)と声をかけられる。そして、「ぼく」は「ねたふり」をしながらその安心感をかみしめる。目をつぶっているから、音だけが「ぼく」には届く。鉄橋の上を通るとき特有の音が聞こえる。こんな感じだろうか。

この歌が見せる情景や心情は、とりたてて特別なものではない。普遍的な生活の一ページだ。でも、すごく幸せな一瞬なのだろうと思う(ふつうの幸せを描いているにもかかわらず甘くならないところが宇都宮敦の作品のすごいところだなあというのは、もちろんある)。『ピクニック』には他にもこのような幸せな一瞬を捉えた歌がこれでもかというほどたくさんある。それらの歌を「ああ、幸せそうだねえ、いいねえ」とにこにこ見つめることは、できるはずだ。しかしわたしは、これらの歌を見ると泣きそうになり、ときには本当にオイオイと泣いてしまう。なぜか。それは、「幸せな瞬間を短歌にする」という行為をなぜ行うのか、ということを考えてしまうからなのだ。

わたしの好きな漫画の一つに、田中ユタカ『愛人ーAIRENー』がある。ジャンルは近未来SFのラブストーリー、といったところか。幼いころに受けた移植手術により、先が長くないと余命宣告をされた主人公の少年・「イクル」と、そのような特殊な患者を慰めるためにつくられた人造人間であるヒロイン・「あい」が、互いの限られた命を謳歌しながら生の意味を自問し、崩壊間近の終末の世界でひっそりと暮らしていく、というストーリーである。「イクル」と「あい」、そして世界にも命の期限は差し迫っているのだが、「イクル」と「あい」はあくまでもふつうの人間と変わらないふつうの生活をし、その中で少しでも幸せを見つけようとする。庭の手入れや海水浴、楽器の演奏など、何気ないふたりの日常が描かれ、それはほほえましいものだが、同時に読者の涙を誘うほどにまぶしいものでもあるのだ。それが記憶の下敷きになっていたので、わたしは宇都宮敦の「ねておきて」の歌を読んだとき、そのあまりの「何気ないふつう」さのきらめきに、これは「イクル」と「あい」のように、逆に何か特殊な事情をかかえた『ぼく』および『きみ』の物語の一部なのではないか、そしてその『ぼく』や『きみ』をとりまく『世界』も一見のほほんと見えるが、逆に絶望に満ちたものなのではないかと勘繰ったのである。

この、宇都宮敦の作品における、①一見ふつうに見える「ぼく」や「きみ」が逆に特別に見えてくる現象、②一見のほほんと見える「世界」が逆に絶望に満ちたものに見えてくる現象を、わたしは先日土岐友浩さんとコラボしたツイキャスで、「裏ピクニック」と名付けた。ことわっておくが、別に、宇都宮敦の作品の「ぼく」「きみ」「世界」を、余命わずか・終末モノと読み解けと言っているわけではない。ましてや『愛人ーAIRENー』の二次創作短歌として読めと言っているわけでももちろんない。ただ、①余命が迫ったキャラクターたちは、命のまぶしさが顕著にあらわれる例として、②終末世界は生きづらさを抱えた世界の比喩として(実際ゼロ年代以降のアニメや漫画作品などに出てくる荒廃した世界というモチーフは苦しい現代社会の比喩であることが多い)とても有効である。

①の「命のまぶしさ」とは「かけがえのなさ」という言葉に言い換えることができると思う。同様に、「ふつうを書くことで、ふつうじゃなさが見えてくる」を言い換えると、「かけがえがあるということを言うことで、かけがえのなさが見えてくる」と言い換えられる。

牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ

その例として、『ピクニック』から引用したこの歌はもっとも最適だと思う。「ふつうに好きだ」という口語の言い回しもおもしろいのだが、それよりもわたしが注目したいのは、「ふつうの女のコ」と書いた点だ。「特別な女のコが大好きだ」と書くことだってできたはずなのに、なぜそうしなかったのか、ということだ。それは、「イクル」や「あい」にふつうの生活をさせた田中ユタカの手法と共通するところがあるのではないか、とわたしは考えた。つまり、宇都宮敦の作品の「きみ」と「ぼく」は、「ふつう」とは書かれていながら、かけがえのない特別な存在であるのだ。

つぎは②の「世界」のことについてだ。『ピクニック』の歌の世界は明るくポップなんかじゃない。『ピクニック』における「ジメジメとした詩情のなさ」は、決して悲しみや負の感情が無いということではない、とわたしは思う。というのも、「明るい歌集」「『大好き』がいっぱいつまった歌集」を目にしたとき、わたしは「暗さや『大嫌い』が存在しないのだなあ」とは思わない。「暗さや『大嫌い』を書かなかったのだなあ」と思う。何かを書くということは、同時に何かを選んで書かないということでもある。先日、笹井賞の谷川由里子のスピーチを聞いたとき、さらにその気持ちは強くなった。谷川由里子の作品は手足を縦横無尽にのばしたような奔放なものが多く、「書いていてつらい時期だった」、「地獄だった」というスピーチの内容に、わたしはすごく驚いた。誰もが「書くこと」の裏に「書かないこと」を背負っているのだ。にもかかわらず、『ピクニック』における「書かないこと」が論じられないのは実にもったいないことだとわたしは思う。では、明るい『ピクニック』の裏には、何があるのだろうか。「きみ」のかけがえのなさをここまで一生懸命に証明しないといけない理由はどこにあるのだろうか。

それはやはり、宇都宮敦の作品世界が、かけがえのありまくるような、絶望に満ちていたからなのではないだろうか。「かけがえのありまくる世界」とは何か。それは、「かけがえのなさを競い合う世界」といって差し支えないだろう。宇都宮敦は「かけがえのなさを競い合う世界」から離脱することで、逆にかけがえのなさを獲得するという実験的試みを行っているといえる。

世界に絶望してしまわないように、『ピクニック』では、一心不乱に世界のステキなモノが描写されている。描写とは、競い合わないようにしながらかけがえのなさを証明するという難しい行為だ。「きみ」もそのステキなモノのひとつにすぎない。しかし。そのことは、「きみ」と「ぼく」を閉じた関係にさせない要因のひとつともなっている。「世界はもう荒廃しているけれど、あなたには希望を見ています、でもあなたを希望にしていたら、世界にたくさんおもしろいものが見つかりました、ほら、こんなにも、こんなにも」と『ピクニック』は語りかけてくる。

僕らには幸せになる必要もないからこころは問わなくていい

この歌も、誰もが幸せになりたがる疲弊した世界から「きみ」を救い出そうとする呼びかけの歌にみえる。しかもその「きみ」への呼びかけは読者への呼びかけとも重なり、わたしなんかは、とても励まされる。

いつまでもおぼえていよう 君にゆで玉子の殻をむいてもらった
ひらかないほうのとびらにもたれれば僕らはいつでも移動の途中

上記の代表歌も、そう考えると、「ふつう」である「きみ」と「ぼく」がいかにかけがえのないものか、ということを歌っている作品に見える。そして、そんな些細なことをまるでお守りのように「いつまでもおぼえてい」なければならないほどの精神状態、「移動の途中」だからだいじょうぶだよ、と自分自身や「きみ」に言い聞かせないといけないこころの持ちようをふまえると、世界は決してあたたかいものではないということがなんとなく想像できて、よりジーンとくるのではないだろうか。

ただ、このように「あえてかかれなかったもの」を読み解く行為というのは、べつにわたしが始めたことではない。たとえばやわらかな作品の代表である雪舟えまの『たんぽるぽる』が、不安と苦しみのなかで描かれたものであることなどは、さんざんこれまで言及されてきたことだ。ただ、『ピクニック』はその装丁の迫力などからして、すこしそれがわかりにくい。しかし、ゼロ年代以降の文学は、と主語を大きくするのは嫌だが、あえていうと、やはり「この世の地獄」とどう戦うかを示したものになる可能性が大きい/可能性からは逃げられないし、『ピクニック』もその文学のひとつに入るのだ。そう考えると、『ピクニック』がどこかしら、黄色い大きな盾のように、わたしには見えてくるのだ。

最後に余談だが、わたしは『ピクニック』の、明るいけれどテンションが高すぎない作風を、ハ長調のバラードのように感じている。メレンゲというバンドの「すみか」という曲がそれにあたるのだが、わたしはこの曲を、最近『ピクニック』主題歌のようにして聴いている。(ほんとうは、映画版『最終兵器彼女』の主題歌です)みなさんも、お時間があればぜひ聴いてみてください。『ピクニック』における、「きみ」を見つめる「ぼく」のまなざしが、歌詞とよくあうので。


2019.3.10. 橋爪志保


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