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きみが僕を好きなのは、僕になにか期待しているからだろ

告白をはぐらかしてしまう。弁明すると、悪意からではない。ただ、人から性欲を向けられることに嫌悪感があり、そういったムードを忌避してしまう。友人だと思っていた人に、友人になれると思っていた人に嫌われたくない。このままの関係でいたい。やさしくされたい。でも、それをはっきりと言えない。だから好意をほのめかされても、「気のせいじゃない?」と笑っていた。残酷だっただろう。ただ、それの何が悪いのか。ピンとこねぇ。と、ふと思った。

「好きです」「つきあってください」という言葉をはっきりと告げられることは、小学校を卒業したあたりから激減した。みんな「ニュアンスでわかってよ」といった風情で、ちゅうとはんぱな形でアプローチしてくるから、私もちゅうとはんぱに返している。つまるところ、フェアにしているつもりなのだが、はぐらかすと根にもたれる。つきまとわれる。攻撃される。なんでだ? 私に好かれたくないのか?

好意をもたれているからといって、やさしくしてもらえるわけじゃない。その逆の方が多い。自分はこんなにあなたのことを好きでいてやっているのに、なんでわかってくれないんだ、何も返してくれないんだ、という怒りを歪んだ形でぶつけられる。何が恋だ。悪態で人間を思い通りにできると思うなよ。多肉植物でも愛でていろ。

「きみがその人のことを好きなのは、その人になにか期待しているからだよ」という言葉は、たしかサン=テグジュペリの書いた言葉だったか。なんて真理をついた言葉だろう。人は誰しも利己的で、自分が可愛い。少なくとも私はそうだ。でも、そう思わない人もいる。愛を知ってる人間は一人前だ、早く結婚しろと急かされる。恋愛のどこにやさしさがあるのか、私にはわからない。友人や先輩と歩いているときのほうがずっと自然でいられる。自分のことを好きでいられる。やさしさはすべて友愛から教わった。

恋の名の下に、私の思想や人生はいつも踏みにじられている。つきあってほしい、料理をつくってほしい、もっと会いたい、結婚しよう、子どもをつくろう、家事をやってほしい、自分をサポートしてくれ、自分だけを見ていてほしい。そういった言葉をうれしいと思えたことがない。私はつめたい人間なのだろうか。私がまちがっているのだろうか。でも、私はあなたの人生なんていらない。私は、私の人生をやりたい。

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