ピアノ・レッスン

茜さんは、絵の具に汚れたゆびさきで、よくピアノを弾いてくれた。そのゆびが鳴らした鍵盤の傷の数々まで、今もくっきりと思い出すことができる。彼女は、資産家の叔父がくれたという、田園のはずれにあるログハウスに住んでいた。他に何をするでもなく、そこでずっと絵を描いていた。新人にしてはそこそこ売れてるのよ、と言っていたから、ちょっとした画家なのかもしれないと思っていた。僕はそこで過ごす時間を気に入っていた。彼女とは親戚でも家族でもなかったけれど、なぜか居心地がよくて、何かと理由をつけてはよく遊びに行ったものだ。僕が思うに、それは僕に人生で一度だけ与えられた、これ以上無く完璧な夏休みだった。

「なに、あんたまた来たの。暇なやつね」
 刺さってくる夏のひざしのような口調とは裏腹に、「たまたま準備してあった」二人分のお菓子をもってくるといって、台所へ歩いてゆく。去り際、切れ味の鋭い、大きな瞳が、かすかに笑っているのを、僕は見逃さない。後ろ手に、絵の具で汚したエプロンのリボンがほどかれ、荒い布地のロングスカートの裾が翻る。僕は明るい思いでこう続ける。
「おじゃまします」
「あんた最近よく来るね。アタシが中学生のときは、机にかじりついてもっと勉強したものだけど。嘆かわしいったらないわ」
「よく言うよ。どうせ絵ばっかり描いてたんでしょ」
 やわらかく軽口をたたくと、いたずらが見つかった少年のように、にっと笑ってみせながら、茜さんはリビングへ現れた。そのはっきりとした笑顔に、オレンジの唇が映えている。良いにおいがして、プレートの上を見ると、焼きたてのスコーンと、僕の好きなアールグレイの紅茶が乗っていた。
「すごい、おいしそう」
「あったりまえ!なんたってアタシの手作りですから」
「よくいうよ。ちょっと前まで隕石みたいなお菓子つくってたくせにさ」
「ふーん、そういうこと言うんだ」
「あはは」
 口にスコーンをふくむと、やっぱり美味しかった。生地はやわらかく焼けているし、木いちごのジャムの甘酸っぱさがよく合っている。ちらりと茜さんを盗み見ると、明らかにさっきまで絵を描いていたという風情だった。深い赤色のスカートの裾に絵の具がくっついている。長い茶色のストレートヘアーは後ろでひとつに結われ、よく見ると、軽く化粧された顔の頬には、青色の絵の具が散っている。
「まだ、この前の海の絵の続きを描いてるの?」
「ううん。それはもう終わったわ。今は新しい絵を描いてるの」
「見ても良い?」
「ダメ」
「けち」
「わかってないわね。プロ意識が高いのよ」
 茜さんは絵を完成させるのが早い。ここに来られるのはよくて週に2回だというのに、同じ絵を描いているところを見たことがない。よく見せてほしいと頼んだが、描きかけの絵を見せるのを嫌がった。だから、茜さんが絵を描くところをまともに見れたことは数えるほどしかない。彼女は、鮮やかで精密な絵を描く。少しもパースの狂いの無い、正しい絵を、科学者のような目で見つめながら描くのだ。
「ヒマワリくんは、お勉強の調子はどうなの」
「だから、ヒマワリじゃないって。葵だって」
「良いじゃない。日向 葵でヒマワリなんて、洒落たあだな思いつくやつ、アタシくらいよ」
 呆れて溜め息をつくと、笑って誤摩化された。名乗ったときからこうだ。名前、なんていうの?へえ、アオイ。名前も女の子みたいにかわいいのね。どんな字を当てるの?あら、ヒマワリじゃない。苗字とつづければヒマワリって読めるのよ。えっ、今まで誰にも言われなかったの? あはは、そんなわけないわよね。絶対、ご両親はわざとつけたのに。えっ……違うの? じゃああたし、アンタのことヒマワリくんって呼ぶわ。
「ぼちぼち、とは言えないかも」
「力み過ぎなのよ。何においても、半分くらいどうでもいいと思ってた方がいいってことをわかってないのね、あんたって。死ぬ訳じゃないんだから、楽しみなさいよ」
「極端すぎてよくわからないよ。それに、そういう客観的なことは大人だからわかることだよ。……わかってて言ってるでしょ」
 ふてくされてカップの端をかじると、
「ふふん、学習したわね、ヒマワリくん」
ふてぶてしく足を組みながら、にやけている茜さんと目が合った。
「お説教より、ピアノを聴きたいんだけど?」
「良いわよ。今日は気分がいいの。この紅茶飲んだらリクエストも受け付けちゃう」
「やった」
 茜さんは優しい瞳で笑うと、くいっ、と紅茶を飲み干し、十本の指をゆっくり運動させながら、リビングの隅に潜んでいる真っ黒なグランドピアノの前に腰掛けた。まずは「エリーゼのために」を弾く。これは茜さんの習慣で、指ならしのためによく弾くのだ。
「何が良い?」
 いつもの曲を言う。茜さんが「やっぱり」という顔で笑った。
「好きね」
「うん」
 ふっと微笑むと、ためらいもなく弾き始めた。唐突に鍵盤をノックする茜さんの指先がつまずくことは、滅多に無い。旋律は優しく朗らかだ。そっと無意識に息をつく。僕の体がやわらかいソファに吸い込まれていく。窓は開け放っているから、時折ぬるい風がそっと前髪を揺らした。木の匂いがする。そして、ときどきそれに絡み付くように絵の具の匂いもする。綺麗だ。どこか海と空のあわいを、ゆっくりと滑り出しているような感覚。この部屋だけ外の世界と隔絶されているかのようだ。あの蒸し暑さ、照り返すコンクリート、目が眩むような太陽。そんなものはどこかにいってしまったんじゃないだろうかと思える。それほど今この瞬間はのどかで、他愛も無く、美しい。この浮ついた気分のまま、どこかへ飛んでいってしまいたい。ふくらんだ風船のひもがてのひらから放たれてしまうように、感覚だけはするすると体をぬけて雲の上をすべりだす。こんなふうに美しい時間が永遠に続けばいいのに。
「はい、おしまい」
 そんな空想にひたっていたとしても、音楽はいつだって必ず終わる。風船に優しく針をあてがわれたように、僕の夢想はゆっくりと萎んでいく。そしてこちらを向いた茜さんに、心からの賞賛と少しのさみしさをこめて、拍手する。
「素晴らしかったです、相変わらず。」
「おほめにあずかり、光栄ですわ。」
「それで、今日のプログラムは」
「ん〜、ショパンの詰め合わせといこうかな。今日は優雅なワルツを弾きたい気分なの」
「楽しみだな」
 茜さんの笑顔を合図に、ちょっとしたコンサートは始まった。夏の蒸し暑い午後、小さな木の家には絶えず風が注ぎこみ、時間は誰に急かされることもなく過ぎ去っていった。こんな風にずっと時間がすぎていけばいいのに。僕はもういちどだけ、そんなふうに思った。それが絶対に有り得ないということを知っていた。だから、そんな風に願うことはどこか贅沢で幸せで、それでやっぱり、切なかった。

「うわ、もうこんな時間。ヒマワリくん、お家の人に怒られちゃうんじゃない?真っ暗だけど。」
「受験生だって夜遊びくらいするさ。」
 ぐいっと伸びをして、飲みかけの紅茶の残りを口にした。
「あーあ、開き直っちゃって。生意気言ってないで帰れ!」
「ひどいなあ」
 軽口を受け流しながら、食器を台所に運んで行く。
「洗い物やっておくから、洗濯物とりこんでていいよ」
「殊勝なことね」
「コンサートのチケット代みたいなものさ」
「ご苦労。あっ、そのクッキー、とっといてね。夜食にすんだから」
「はいはい。」
 茜さんは慇懃無礼に手をふって、裸足特有のかわいた足音をさせて二階に上がって行った。ちらっと振り返ると、ピアノのペダルを踏むために履いたスリッパは無造作に脱ぎ捨てられている。それに溜め息をついて、きちんと行儀良く並べておく。おそらく茜さんは戻って来たときそんなことには気づかない。これが楽譜の開き加減であったり、パレットに置く絵の具の位置であったりすれば瞬く間に気づくだろう。「ちょっとあんた、勝手に触ったでしょ」と文句のひとつも口にするだろう。だが、脱ぎ捨てたスリッパのことなんて覚えていない。彼女にとっては、食べ残されたクッキーほどの価値もないのだから。

「茜さん、終わったよ〜」
「ありがと。アタシも終わったわ。送っていってあげようか。襲われたら危ないし」
「……これでも男なんだけど」
「そうだったの、ヒマワリくん可愛いから、女の子かと思ってた」
 階段と手すりのあいだから澄まし顔でそんなことを言う。頬がひきつるのを感じた。
「ひどい冗談」
「あははっ」

 扉をあけると、たしかに風は冷えきっていたし、空には星が浮かび上がっていた。田園を歩く。青々と茂る田園を、ただひたすら。このままずっと歩いていたいという気になる。苦笑する。なんの不自由も無い生活をしていて、どうしてずっと、こんなことを考えているんだろう、僕は。学校の成績はまずまずだし、合格すればそこそこ見上げてもらえるような偏差値の高い高校も、手の届く範囲にある。手を伸ばしさえすれば、ある程度傷つかずに生きてゆく道は簡単に手に入る。……いや、実のところそんなに余裕はない。本当なら今日は、数学の復習をいつもより一時間多くやろうと思っていた。テストの点数が思うようにとれなくなっていたからだ。「日向くんならもうちょっととれたかもね」気遣わしげな教師の瞳が脳裏によぎる。それなのに何故か、足はするすると茜さんへ向かって行った。馬鹿だ。茜さんといるのは楽だった。過保護な親。クラスで目が合うたび頬を染めて熱のこもった視線を向けてくる女子。まるで見張るように時折声をかけられ、挨拶を返す近所のお年寄り。誰とも違う。彼女と会うことは、なにかが違う。
「ばいばい、ヒマワリくん」
 素っ気なくて美しい笑顔が目に浮かぶ。頬についた絵の具に、茜さんは気づいているのだろうか。いや、多分気づいたとして、慌てて頬をぬぐうことなどしないだろう。どうでもいいのだ。脱ぎ捨てたスリッパと同じくらい、どうでもいいのだ。茜さんのことを思ったら、なんだか悩んでいることがしょうがないという気がして来た。あの人にとってはほとんどのことが「半分はどうでもいい」。今日はもう寝よう。明日いつもより早く起きて、ゆっくりと英単語でも覚えれば良い。ふっと笑いがこぼれた。さっき扉をくぐった時よりほんの少し、星が輝いて見えた。

「葵くん、転校するってほんと?」
 図書館に本を借りに行ったら、図書委員の女子に話しかけられた。
「ああ、うん」
 どこから聞きつけたのだろう。昨日親に言われて僕も拍子抜けしていたところだというのに。
「どこに引っ越すの?県外?」
「ううん、そんな遠くじゃないよ。長野市。県庁に近づくってだけ」
「そっかあ…でも、気軽にかえって来れるわけじゃないよね」
「そうだね。高校もそっちのほうで探すことになりそうだし」
「大変だね」
「うーん…そうなのかな。なんかあんまり実感わかなくて。」
「そっか…」
 その子はまだ少し話したげではあったが、そろそろ解放してほしいという気分になったので、少し不自然ではあるけど、じゃあね、といって別れた。
 茜さんになんて言おう。
 朝からずっと思い出すように考えていたその質問の答えは、未だに見つからない。暗い廊下から外を見ると、降りそうで降らない雨雲が、頼りなく膨れ上がっていた。夕立かな。壁時計の短針は4を差していた。その素っ気ないシンプルなデザインの白さは、僕をむなしくさせる。
 引っ越しをしたら、きっともう、茜さんには会えないだろうという気がしていた。それはもしかしたらおかしなことかもしれない。でもそれは確信に近い疑いだった。名前のあるような関係ではないから、こんな気分になるのだろう。対等な友人でもなく、愛を囁きあう恋人同士でもなく、結婚式の招待状を送る恩師でもない。この距離にいるからこそ会える人なのだ。また、胸のあたりをつめたい氷がよぎった気がした。

 きっかけは一本の赤い絵の具だった。
 僕はあの日、なんとなく気分が浮ついていて、普段は行かないところに行ってみたかった。家とは反対方向にある商店街や公園をぬけて、底抜けに明るい緑色のあぜ道を歩いていたのだ。そうしたらいつの間にか茜さんのいるログハウスにたどり着いていた。なんだか玩具のような家だなあと思って、珍しく興味津々になって、庭まで入りこんで、そこらじゅう見渡してから、その視線に気づいた。女の人が、胡座をかいて、膝に頬杖をついてしげしげとこちらを観察していた。そのときも茜さんは赤色のツナギを着ていて、そこらじゅう絵の具まみれだった。見知らぬ土地でいきなりそんな人に遭遇したら、普通警戒すると思う。ただ、茜さんの瞳はあまりにまっすぐとこちらを見つめていたし、変なひとだとは思いこそすれ、危険なひとだとは思わなかったのだ。
「最近の子どもは躾がなってないのねえ。人の家の敷地に勝手に入りこんでると、捕まるよ」
 言葉のきつさと相反するように、その台詞はあまり僕を責めていなかった。なので僕はしばらくきょとんとしていた。その人は、そんな僕の顔を見て空気をぬくようにふっと笑った。
「ね、これ開けてくれない?」
 目の前に突きつけられたのは赤色の油絵の具だった。「茜色」と印字されている。
「ほっといたら蓋が固まっちゃったんだよね。さっきから頑張ってるんだけど、アタシのか弱い腕じゃあ開けられなくって」
「いいですよ、やってみます」。
 絵の具は、苦心すること十五分、僕が提案した「蓋をお湯で温めたらどうか」というアイデアによって開封された。
「絵を描くのが好きなんですか?」
よく見ると、庭にある蛇口の近くに、バケツがあり、その中に無数の筆がささっていた。
「んー、描いてるってことは、そうなのかもね」
「なんですか、それ」
「理由があるから行動するじゃなくて、行動してから考える主義なの」
「ふうん」
「それより、よかったら家でお茶でもどう? おいしい手作りお菓子もご馳走するよ。」
「えっそんな・・・有り難いけど、遠慮します」
と、言いかけたとき、鼻の頭にポツン、と冷たいしずくぶつかった。大粒の雫だった。嫌な予感がして空を仰ぐと、瞬く間にその粒は群れをなし、夕立になった。あまりのタイミングのよさにぽかんとして茜さんを見ると、雨に濡れたままニヤリと笑った。
「うちに寄って行かない?」
「はい、ぜひ・・・」
 その日でてきたお菓子のひどさを、僕はきっと一生忘れない。あんな真っ黒なスコーンを僕は未だかつて見たことがなかった。「これ、人の食べるものじゃないです」と真顔で言ったのを覚えている。僕はなぜか彼女に対してはいつも残酷なまでに正直だった。ただ、その日弾いてくれたピアノの素晴らしさも、きっと一生忘れない。……つねられた頬の痛みも忘れない。

 目線の先で流れ星がひとすじ、流れていった。
ログハウスへの通り道にある公園で、ちょっとひと休みしようと思ったのが間違いだった。いっこうに立ちあがる気にならなかったのだ。
 なにをためらってるんだろう。僕は。まるで恋人に別れを言い渡す男みたいだ。まあそんな経験はないんだけれど。明日こそ行こうと決めて、急ぎ足で僕は家路を急いだ。あのあとやっぱり雨が降った。そのせいか踏みしめた土はいやにやわらかく、僕の靴にからみついてきた。

「葵、帰ったの?」
「あ、うん、ただいま」
「受験生なのに、あんまり遅くまでで歩いちゃダメよ」
母の気遣わしげな声が胸にずかずかと入りこんで痛かった。耳をふさぐようにして玄関を通り過ぎる。すると、居間から甘い香りがただよってきた。
「ああ、お昼にね、お隣さんがたずねてきて…スコーンとお紅茶もらったの。ご飯まで食べて待ってていいわよ」
うん、ありがとう。そう応えた。僕が昔好きでよく食べていたお菓子だった。でも、僕はそれを食べなかった。今食べたいものは、それじゃなかったから。

「めずらしいのね、日曜日に来るなんて」
「うん、今日は塾が休みだから」
 あんなに悩んでいたのに、時間というのはなんてすごいんだろう。自分でもびっくりするくらい自然にドアをノックすることができた。
「塾がないとお勉強しないなんて、勤勉じゃないんだねえ」
「ほっといてよ」
「ふふん」
 相変わらずな茜さんの憎まれ口にほっとして、たずねた。
「今は何の絵?夕焼け?」
 頬についていた薄い桃色の絵の具が、この前見た夕焼けの色と同じだった。
「当たり。よくわかったね」
「へへ」
「でもね、今日はもう絵を描く予定は無いの。」
「どうして?」
「二階をご覧あそばせ」

「うわあ」

 久しぶりに案内された二階には、絵の具がそこらじゅうに散らばっていた。尋常じゃない量である。
「どうしたらこんなことになるわけ」
「寝ぼけて、絵の具を入れてた缶を片っ端から蹴飛ばしたみたい」
 よく見ると、床の片隅にそれらしきものが転がっていた。ポスターカラーの12色しか、絵の具というものを知らなかった僕の目に、その絵の具の山はまるで未知の生物のように映った。
「茜さんらしくていいね……」
「ほめてない」
「今日はこれを並べ替えるという単純作業で日が暮れる予定。もちろん手伝ってくれるよね!」
 頷くほかなかった。
「ありがとう。色名の順に並べてほしいんだけど良い?」
「色名?青色とか、赤色とか?わ、青色がいっぱいある」
「それは空色、こっちは藍色。あれが群青色。」
よく見ると、たしかに一本一本の絵の具に名前がついていた。見たことも無い色が、いや、見たことはあるけれど知らない色の名前が無数に散らばっている。言われた通りに並べて行く。かすれた絵の具が上からかぶって見えなくなっているものは、茜さんにたずねた。
「右から、常磐色、若草色、鴇色」
「じゃあこれは?」
「紅色、桜色、ヒサメ色」
「すごいね、全部頭に入ってるの?」
「まあね」
「すごい」
そんな風に黙々と作業を続けていたら、日が傾くころ、ようやく終わりが見えて来た。
「あ」
ふと一本の絵の具が目に留まった。
「ん?」
それは茜色の絵の具だった。
「茜さん」
今だ。言おう。自然にそう思った。
「なに?」
「僕、引っ越すことになったんだ。長野市のほうへ」
「へえ〜! いつ?」
「夏休み明けには」
「ずいぶん急ねえ」
「うん」
 そうだよね、参っちゃうよ。と笑うと、茜さんは何か考えるようにして僕を見つめたあと、あんたも大変ね、と言った。「大変だね」昨日話しかけてきた女子の声がよみがえる。大変だね。あのときのような、すがるような、さみしそうな雰囲気はどこかにあっただろうか。茜色の絵の具を、ゆっくりと並べる。
「はー、終わった!ありがと、ヒマワリくん」
 その声を追いかけるように、真意をさぐるように表情を見つめてみたけれど、やっぱり茜さんの笑顔はあっけらかんとしていた。いつもは清々しい思いをくれるその笑顔が、なぜかじんわりと僕の胸を痛めつけてきて、思わずせきこんだ。

「最近元気ないんだね」
「え、ああ……」
いつのまにか、教室でぼんやりしていたらしい。途端に意識が教室の喧噪を呼び戻す。この前話しかけて来た女子が、気遣わしげにこちらを見ていた。ふいに、鼻先にかぎ慣れたにおいが香る。
「そんなことないよ。それより、なんか甘いにおいしない? 家庭科で実習でもあったのかな〜…いいなあ。」
「あ、うん……えっとね」
「ん?」
ためらいがちに鞄から出されたのは、リボンでラッピングされたカワイイ小包だった。
「クッキーつくってきたの」
「え、くれるの?ありがとう」
可愛らしくラッピングされたクッキーが、僕の手におさまった。
「バニラと、チョコでつくってみたんだけど、好きかな」
「うん、好きだよ」
にっこり笑うと、よかった、と消え入りそうな声でつぶやいたあと、その子は去って行った。バニラとチョコ。はじめて茜さんと会ったときと同じ味だ。星の形に切り取られたクッキー。ひとつ取り出して齧ってみる。僕のためにつくられたクッキー。型くずれもしてないし、こげてないし、砂糖と塩も間違っていないし、いい匂いがするそのクッキーの味を、僕はすぐに忘れてしまうだろうなと思った。脱ぎ捨てられたスリッパみたいに、たやすく。ああ、僕もあなたも、なんて薄情なんだろう。クッキーを齧りながら、僕は思わず毒づいた。あまりにも身勝手に。なんの根拠も無く。

 ぼんやりと、過ぎていく。プールサイドから見た校庭みたいにうさんくさくて、喉のかわいたまま受ける授業のようにだるい日々が。
「葵、帰ろうぜ」
 幼なじみが鞄を背負いながら話しかけるのを、ちょっと用があるから、と制して、僕はある日第二音楽室に向かった。
 誰もいなかった。当たり前だ。一年半ばに退部した吹奏楽部は第一音楽室で練習することになっているし、合唱の練習をするような季節じゃない。グランドピアノが、深海の貝のように口を閉ざしてそこにあるだけ。でも僕はその向こうに思い出を見ることができる。たまらなくなって、その場に鞄を肩から落として駆け寄った。ゆっくりと開き、鍵盤に触れる。エリーゼのために、を弾いてみる。でも、全然だめだった。僕はふっと笑った。茜さんのピアノが聞きたいと心底思った。だから僕は、悔しいけどまたログハウスに行くことにした。

「あ、…茜さん!?」
「どうしたの、ヒマワリくん」
「………茜さんこそ、どうしたの」
玄関を開け、靴を脱ぎ、そこに茜さんの姿を見つけ、僕は絶句した。
「きったな!」
「うわーきずつくう」
 たしかに、茜さんはいつも汚れていた。そこらじゅう絵の具にまみれていた。でも、今日茜さんの腕や顔に散った絵の具の量は尋常ではなかった。
「悪いんだけど、今日は何にもつくってないんだ。アンタ最近来なかったし。あーでも、甘いもの食べたいなあ。つくろっかなあ」
 このままずっと喋り続けそうな勢いに、素早く口を挟む。
「あ、じゃあちょうど良かった。茜さんが好きだって言ってたくるみ餅、買って来たんだ」
「本当!? さっすがヒマワリくん! いいわあ、毎日来てほしいくらい」
「……茜さんは現金だな……」
「今更ぁ?」
「ふふっ」
 その奔放な様子に、思わず笑いがこぼれる。ふと見上げると、茜さんの絵の具まみれの顔も、爽やかに笑んでいた。すべてが帳消しになって解決したような気がした。

「おいしい〜〜〜!!!」
「そんなに言うほどおいしいかなあ」
「アンタ、なんてこというの! くるみ餅に謝りなさい!」
「え〜・・・」
「まあ、今だからおいしいのかも。何しろ三日間くらい何も食べてなかったしね、そういえば」
「ハア!?」
「やあね。芸術家にはよくあることよ」
「へ、へえ……」
 茜さんがあんまり美味しそうにくるみ餅を頬張るので、僕もなんだかいっぱい詰めこみたくなり、三つほど詰め込んでみると、茜さんが吹いた。
「あっはは!アンタって変ね」
 ちょっと恥ずかしくなり、ゆっくりと咀嚼して飲み込んでから、言い返す。
「茜さんに言われちゃおしまいですね」と。
 そうして、その日はピアノを聴くこともなく帰ってしまった。いつになく集中していたようだったから、邪魔できないと思ったのだ。本当は、いつまでも話していたかったのだけれど。それからは思い出すように何度か会っていた。そのたび、茜さんははなだ色の絵の具に塗れていたけれど。

「いらっしゃい」
 はなだ色に汚れた指が、ドアノブを握っているのを見つけた。
「まだ完成してないんだね、その絵。大作なんだ?」
「そうなのよ…」
 えっ? と思った。茜さんに似つかわしくない、気弱な色が滲んで聞こえたからだった。
「大きい絵なの?」
 覗きこむように、僕はたずねてみた。茜さんはふっと笑った。その笑顔はいつもみたいな鮮やかな夏の日差しではなくて、冬の日の淡い日だまりのようであった。
「そんなことより、今日はさ、一緒に弾こうよ、ピアノ。あんたもう行っちゃうんでしょう」
「ん、うん。でも僕、最近は聴くばっかりで、弾けるのは少ないよ」
「じゃあ何が聴きたいと思ってた?」
僕と茜さんの間では定番となった、その曲の名前をつぶやいた。
「あはは、またそれか」
はい、と手渡されたのは、初見でも弾けそうなくらい易しい楽譜だった。
「これくらいならいけそう」
「よかった」
「まって、指ならしさせてよ」
「もちろん」
 僕がまごつきながら難しそうなところだけを繰り返し試していると、茜さんは木のテーブルで頬杖をついて僕を楽しそうに見ていた。
「あのね、ヒマワリくん。聞くだけ聞いて」
「んあ、はい」
「あたしね、不満なことがいっぱいあってここに来たのよ。」

「あたしの絵は売れてるわ。名無しの画家気取りにしちゃ上々よ。周りも大絶賛。でも、そういうことじゃないんだけどな、って想いがずっとあったのね。あたしはお金よりも目標よりも、その先にあるもっと素敵な日常を手に入れるために描きたいの。それなのに、友達も教授もわかっちゃくれないわ。聞く耳もってくれない。ただただ、すごいすごいって、不満を言うとねたむような目で見て来て、うんざりよ。だから山ごもりすることにしたの。このログハウスで2ヶ月、ひきこもって描いてやる、嫌いなやつのカオなんか見ずに。すごい絵を描いてみせる、って。でもね、描けなくなっちゃったの。もうぱったり、何を見ても美しいと感じなくて、絵の具の蓋がくっつくくらいふてくされて過ごしたわ。きっと情熱がこげついてたのね。ふふ、そう、初めてつくったクッキーみたいに。そんなときにね、あなたが来たのよ。なんでもない話をして、あたしの城にあがりこんできたわ。どうってことない愚痴を聞かされたり、初めてつくったお菓子にいちゃもんつけられたり。大学生活に比べりゃなんでもない1日だった。でもね、それがたまらなく、あたし、嬉しかった。」
救われていたのよ。か細い声でそう言うから、いつのまにか練習する指がとまっていた。絵の具とお菓子のにおいがふわっと鼻をつく。
「だから、これはお礼ね」
 右を見ると、いつものはっきりした笑顔。足下のペダルに裸足の足がすべりこむのを見た気がしたけど
「いち、にいさん、にい、にい、さん、はい」
茜さんが歌うようにささやいた合図にかきけされた。
驚きつつ、僕の指はもつれそうになりながらも、なんとか鍵盤の上をすべる。右上で茜さんの指がなめらかに動いている。まるで躍るようだ。僕が間違えて濁した音すら、美しい和音がさらっていく。いち、にいさん、にい、にいさん。いち、にい、さん、にい、にいさん。茜さんは微笑んでいる。まるでいるはずのない姉に出逢うように懐かしい。指先と指先がぶつかりあうのも構わずに弾き続ける。いち、にい、さん、にい、にいさん。メトロノームが頭の中ではしゃいでいる。ああ、なんて楽しい。いつも遠巻きに見ていたはずの舞台に、ひっぱりだされてしまったのに、どうしてこんなに楽しいんだろう。涙が出ている事に気づいていたけど、僕はなんでもないように笑いながら、ただただ弾き続けた。いま、ここでぶつかりあっている想いに、なんて名前をつけたらいいんだろう。きっと、誰にもわかりゃしないよ。僕がこんなに幸せだってこと……。

「はい、おつかれ!」
「つ、つかれた……ピアノって、つかれるんだ」
「肩に力がはいりすぎね、あんたは」
「手加減してよお」
「冗談」
「あははっ茜さんて、最高だね」
 グラスでオレンジジュースを飲んでいた茜さんは、一瞬目を見開くと、片目だけつぶって、「サンキュウ」と笑った。それこそが、僕の渾身の、感謝をこめた一言だった。
 そうだ、と思った。感謝といえば。
「茜さん、これ、もらってくれる?」
「あら。なあに?」
 茜さんの大きなてのひらに、ころん、と小さな絵の具をのせた。中央には「茜色」と書かれている。それを見て、全てを了解したかのように茜さんは微笑んだ。だから僕も、何も弁明しないことにした。茜さんは、それをにぎってすうっと二階へとあがっていった。なんだろう。でもその後ろ姿はなんだか儀式のように毅然としていたので、僕は茜さんの動きをじっと見守っていた。ぺたぺたと裸足の音がするなか儀式はおこなわれる。脱ぎ捨てられたスリッパはそろっていなかった。茜さんがすっと目の前に立つ。背が高いなあと思った。
「じゃあ、はい、これあげるわ」
「なあにこれ」
 見ると、ノート二つ分くらいの大きさのキャンバスに、大きなヒマワリが描かれていた。苦笑する。わかりきった答えを僕は待ってみる。すると茜さんはこう続けた。
「あたしの三週間」
「えっ!?」
「何よ」
「これが、茜さんが珍しく苦戦してたサイズなの!?」
「……あんたってほんと、歯に衣着せないよね」
「うん、だって事実ちっちゃいじゃん」
「ふーん、そんなこと言うのね〜。じゃああげないわよ」
「ほんとにもらっていいの?」
 それは質問ではなくて、確認の響きをもっていた。
「…あんたのために描いたのよ。まあ、まだ未完成なんだけど」
「いい加減だなあ。餞別にしちゃひどいよ」
 そう笑うと、茜さんの形の良い眉毛が勢いよく跳ねた。
「はあ? 餞別? なんてこと言うのよ」
「えっくれるんじゃないの」
びっくりして聞き返すと、茜さんは「馬鹿ね」とでも言いたげに、少し溜めてからこう続けた。
「あげるのは、完成させたらよ。未完成品を人にあげれるわけないじゃない。だから、ひとまず預けさせてちょうだい。」
「それって…」
「いつか、続きを描かせてよね」
 そのとき、この絵の具も使うわ。今度はあったかい笑顔でそう言ったので、僕は思わず、また泣きそうになる。
「…うん」
 僕は、その未完成の絵を抱きしめるようにして持ってみせた。未完成だったから僕の服は汚れた上、画面が乱れて茜さんにチョップをもらったけど、そんなことはどうでもよかった。涙ぐんだところが見られなくてよかった。

この絵を絶対に手放さない。この絵には夏が詰まっていた。こげたクッキーが。開かない茜の絵の具が。青く青く深まる、夏の空が。

「やっぱり、茜さんは最高だ」

僕は、まるで夏の日差しのような笑顔に向かって、はにかんだ。

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