魔が差す

突風がふいたときに、持っている荷物を手放したいと思った。わたしは橋の上を歩いていて、右手にお気に入りの傘をさしていた。それを風が揺すっていくままに任せ、一秒後に世界がどうなるのかを見てみたいと思った。この傘は、風をうけてどんな軌道をえがき、飛んでいくのだろう。骨組みはばらばらに砕けるだろうか。布は。やぶけるだろうか。胸に湧くものがあった。しかし次の動作では、手放すことを選択しなかった。そこに確信はなく、ぼんやりとした誘惑が、わたしの心の表面に染みついてしまったことを自覚する。それでも再び歩きだす瞬間には、あらゆるレイヤーを通りぬけ、ゆっくりと体に浸透していく、一杯のココアのような重みがある。いつだって、手に入れたもののすべてを投げ捨てることができた。しかしそれをしないと、わたしは泥を巻きこみ荒れ狂う、小さな川と約束した。今にしてみれば、風がふけば飛ぶような、あっけない軽さを伴う決断だった。しかしこれこそが、世界とわたしの間にかわされた、唯一の愛だと、この頃のわたしは思っていた。

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空欄

かぎられないかぎりかぎりない感情

2016年に発行した歌集(私家版)に載せていた散文です
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