闇に咲く花 感想

ネタバレありです。
戯曲を一通り読んで、一度だけの観劇なので、細かいところは覚えてないです。ざっと受けた印象や思ったことだけです。全部が全部、完全には理解できてないけど、凄くよかった。
加藤さんのギターの音色と舞台転換はなく、神社のある一ヶ所だけ。時代的に当たり前だけど全く派手さはなくて、とてもシンプルだからこそ自然と入り込んでいた感じがする。
観劇された方の感想で「号泣」「泣けて」とよく見ていたけど、自分は終盤までそこまで感情が揺さぶられることがなく、クスッと笑う部分の方が多かったからこのまま終わっていくのかなぁ、と思っていたが、違った。終盤、真っ暗だった背景が青空になる。神社には光が差し込んで、そこにいる人々が眩しそうな夏の神社の様子がそこにある。
その光景に切り替わった瞬間、涙がポロポロと出てきた。自分が何に泣いてるのか分からないけど。
「この名前に二本線の引いてある牛木健太郎という人は?」そこにいるべき人がいなくて、でもその人が願っていた神社の存在があることにグッときた。
この舞台でも松下さんの「いないけど、いる」が凄い。八郎の時も向こうの果てでも、それを感じたけど、出てないけど強烈な気配が残ってて、人の記憶にへばりついている感じ。それがこの作品でもあった。
健太郎が始めて舞台上に現れた時のうわぁ…出た…と。姿を現してから、彼は明るく快活で肉体もはじけるように元気で走り回ったりした。吸い込まれるように見入ってしまった。でも健太郎は実際に神社に帰ってきていたのかは分からないな。
健太郎だけじゃなく、5人の未亡人たちが御神籤で大吉が出た時に叶った願いも、もしかしたら現実では起こらなかったかもしれない。マッチ売りの少女のような、こうだったらいい願望を見ていただけなのかもしれない。戦後のままならない生活の中で、自分の悲しみや苦しみを紛らわせて、明るい事を思いたい未亡人や公麿の願いだったのかもしれない。
正解は分からない。健太郎の真っ直ぐさと健やかさがとてもまぶしくて、この世の者じゃないような気がした。
それは母と暮らせばの浩二とは違う。「幽霊」ではない、と自分は感じた。
作戦失敗でお金がなくなってしまい、神社をたたむ話が出た時、婦人たちはこの先の行く当てがありそうだったのにも関わらず、「お面工場が無くなるのは嫌だ」と言った。とにかく寄り集まって、なんてことない事を話しながらガハハと笑って作業をすること。それがあの時、彼女たちが1番失いたくない事だったんじゃないかな。1人で居ては生きる気力も無くなるような出来事に皆が直面して、痛みを持つ仲間が集まって一緒に過ごす時間は心の拠り所だったのだと思う。
それは戦時中戦後に関わらず、今でもすぐそばにある光景。人はこうやって強く生きていってるんだ、と感じた。
清らかだし、明るい生活を願うラストだけど、そのすぐ近くには大きな黒い塊のようなものの気配があって、太鼓の音と共に近づいてくるようなラストだった。
戦争を扱った作品や戦争の資料などを見るたびに思うのは、この戦争を体験して記憶にある人と、それがない人とでは違う。そこには凄い境界がある気がする。それほど戦争はグロテスクであり得ないことが起こってしまう。それを知る人と知らない人とでは色んなものが変わってしまうんだろう、といつも思う。それは本来知らなくても良いことな気がする。そんな記憶はない方がいい。でも私の祖父も祖母も会社の会長も、近所の杖をついた老人にもその記憶があって、実際に起こったことなんだ。もうそんな苦しい記憶を持った人を出さないように、知って語り継いでいくことが大切なのかもしれない。
その記憶を持った人がもういよいよ居なくなる日が近い未来にやってくる。
この物語で神社や神道がいつのまにか本来の意味とは違ってしまったように、戦争は自分の意思でなくても、片棒を担がされたり、加担させられたりして、それが当たり前になって本来の意味や存在がねじ曲がってしまうことが起こる。それを教えてくれた「闇に咲く花」だった。

この劇中に出てくる公麿も未亡人たちも巡査も健太郎も稲垣も今は生きてない。この登場人物の中で今生きてるとしたら赤ん坊ぐらいかもしれない。
今はいない人のことをもう亡くなった作家が書いて、それを私たちが観ている。それって凄いことだなと。死者の生きてた姿を生きた役者を通してダイレクトに感じることができる演劇。すごいなと。

まとまらない感想ですが、そういうことを思ったことを、忘れないように書いておきました。

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