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夏のおわり (つよがり)

毎週水曜日、彼女はバスを乗り継いでいつも少し遅れてやってきた。             他の受講者ともすぐに打ち解け、集中して僕の話を聞いて自分の作品作りに夢中だった。どういう作品を作ろうか、となって彼女がスケッチブックに絵を描いたことがあった。絵がとても上手で驚いた。                   僕は教室が終わるといつもバス停まで彼女を送った。その時も彼女の電話が鳴ることはなかった。二人の時間。ごく自然に手を繋いで歩いた。バスが来るまでのわずかな時間、他愛もない話をして、笑って、キスをして僕はいつもバスに乗る彼女の姿を見送った。側から見たら幸せな恋人同士にうつるのかもしれないなぁ。     

僕は2年前に古民家を改装して自分の工房を構えた。週末に彼女が工房にくることも時々あった。彼女が来ると「青山さんは?」と、いつもその言葉が出そうになったけど、それを言ってしまうと彼の温かい笑顔が頭をよぎるので決して口にはしなかった。                「橘さんは気にせず、なんも気にせず作業しててよ。私見ていたいだけなの。ずっとこうやって見てるのが楽しいの」             彼女はそう言って少し離れたところのアンティークの椅子に座って、うちの猫を膝にのせて撫でながら、僕を見ていた。猫のとらも彼女によく懐いて、喉を鳴らしていた。僕の仕事が終わると奥の自宅で夜を過ごした。彼女は料理をするのが得意ではなかったから、いつも二人で台所に立った。料理をしながら二人でビールをあけて、目が合うとキスをしたりした。            そして僕の狭いベッドで眠った。       僕たちは同じ名前だから普段一緒にいる時は苗字で呼び合っていたけど、夜同じ布団に居る時だけはお互いを「ちひろ」を呼んだ。       あまくてトロトロと溶けるような夜を何回何十回過ごしただろう。このまま、全てを投げ出して二人でずっと一緒にいられたら、と思ったけど、初めて工房に来た時の二人の姿を思い出して、思考を止める。ただ隣で眠る彼女の細くて白い肩を見た。愛おしい。今は、今だけはこの愛おしい人は僕のもの。先の事を考えることが怖かった。  もう7月が終わろうとしていた。

「絵が凄く上手いんだね、習ってた?」    僕がある日聞くと             「うん、大学生の頃勉強してた。でも、親の進めで全然関係ない今の会社入って、なんとなく今も働いてる。でもね橘さん見ていたらもう一度絵を描く何かをしたいかもしれないって、最近はよく思うよ」                  彼女は生まれも育ちも都会で両親に大切に育てられたんだろうな、きっといい家の子だと思う。話を聞いてるとなんとなく分かる。世間知らずで。大企業に勤めてて、安定した収入のある人のところにいたほうが好きな事だってやれる。彼女の家族だってそれを望むだろう。一般的に見ていい暮らしができるのは僕じゃないな。そう思った。彼女の幸せがなにかは僕が決めることじゃないけど。彼女の幸せを一番に考えているようで、本当はこの恋のために生きる覚悟がない、弱い自分から目を背けたかっただけかもしれない。そんなことを考えながら、彼女と彼女の婚約者がする指輪を僕は磨いていた。もうすぐ完成する。

8月のある夜「青山さんと暮らす事になった」と彼女は言った。               「そっか、来月には結婚するもんね…着々と話は進んでるんだ。」と嫌味のようなことを言って自分の言葉に胸がチクチクと痛くなった。   「私、このまま結婚できるかな…こんな気持ちでできるのかな…」                「するでしょ、しなきゃダメでしょ。僕はこのままずっと一緒にいようとか言わないよ?…もしこのまま僕とどこかへ逃げたら、名もない彫金師と浮気して、優しくて働き者の婚約者を捨てた女だってずっと、ずっと言われるんだよ?誰がどう見ても悪いのは僕らだよ。」彼女に向かって言った言葉は僕自身に言い聞かせた言葉だった。彼女は悲しい顔をして俯いていた。その顔が見ていられなくて、部屋を出た。             部屋に戻って、彼女が僕の顔を見た時、彼女の電話が鳴った。なかなか電話に出ようとしない。 「青山さんでしょ?出なよ、大事な話かもしれない」そう促し、やっと彼女が電話をとると、 「もしもし?ちひろ?あのさ!明日の朝、出張から帰れることになった!」          青山さんは声が大きいから、電話の声が僕にも聞こえた。とても嬉しそうに弾んだ声だった。  うん、うん、わかった、と彼に合わせて相槌を打って彼女は電話を切った。          「明日、冷蔵庫が新しいウチにくるんだって。凄い大きいのを買ったらしいの、なんでも大きいものが好きなの……ごめん、明日朝に帰るね」   「家具とかも全部揃えるんでしょ?ベッドも大きくて…うちの、僕のシングルベッドとは全然ちがう…」 そう言って、彼女に近づき、いつもより乱暴にキスをした。彼女もそんなキスを受け入れて、また狭いベッドで僕らは体を重ねた。   朝、目が覚めると彼女がうちを出るところだった。                    「もうバス出てるから、帰るね、ごめん」   「今日さ冷蔵庫来たあと、青山さんと二人でここに来られる?…結婚指輪が完成したんだ。ちゃんと二人に渡したいから、来て。」        「分かった。」そう行って彼女は出て行った。

二人が工房に来たのは夕方だった。彼女と恋人が並ぶ姿を見るのは初めてここに来て以来だったけど、やっぱり二人はお似合いだった。     「依頼されていた結婚指輪できました。今持ってきますね」                 僕は指輪の入った箱を机に置き        「あけてみてください」           青山さんが箱を開けて、指輪を見る。     「二人をイメージして作りました。サイズが大丈夫か、指に一度はめてみてください」     「おぉー!凄いね、凄くいい。サイズも丁度いいです!」青山さんはそう言ってニコニコと彼女を見る。                   彼女は恐る恐る指輪を手にとって、薬指にはめると、ポロポロと泣き出した。         「すてきです、ごめんなさい、私。凄く素敵だから」 青山さんはどうして泣くんだよ、泣くほど⁉︎とオロオロしていて、僕も彼女の涙を見て、どうしたらいいか分からなかった。        でも作り笑いをしていたような気がする。   すると、泣いている彼女の足元にニャーと鳴きながら、とらが擦り寄って行った。彼女はとらを優しく撫でて笑った。            「僕に依頼をしてくださって、ありがとうございました。とても嬉しかったです。お幸せに。」 二人にそう言った。それは僕の本心だった。  

次の水曜日、彫金教室に彼女はまたいつものように遅れて来た。もうこの教室での作品も今日で完成する。彼女は自分の作業をきっちりとやり終えて、満足気に僕を見た。僕も笑って彼女を見た。また今日も彼女をバス停まで送る。      ゆっくりと二人並んで歩くけど、今日は一言も会話は交わさなかった。バス停についてバスを待つ。                   「いい作品できたね、よく頑張りました。もう教室には来ない?」              「うん、今日で最後にします。教えてくれてありがとう。」                 「桜井さんの作品、まだあと少しだけ僕が仕上げをしたいから、それが終わったら自宅に送るね。住所教えて。書いて。」もう連絡を取り合わないよう敢えて、連絡先をメールで送ってとは言わなかった。彼女はカバンからペンとメモを取り出してサラサラと書いて僕にくれた。       僕はそれをお尻のポケットに入れて、二人でバスを待った。                 彼女が僕を見ていたので、見つめ返すと、僕の頬を両手で包んで、最後のキスをした。     彼女が「大好きだった。」そう言った。 優しい目をしてそう言った。            僕は彼女の手に自分の手を重ねて、頬から手を解いて笑って見せた。それが僕の精一杯だった。 バスが来た。彼女が振り返ることはもうなかった。バスが行ってしまった。         僕はトボトボとひとりで歩きながら、    「僕もだよ」とつぶやいた。         工房に戻ると、とらがいつも彼女が座っていた椅子で眠っていた。それを見て鼻の奥がツンとして涙を堪えることができなかった。


橘ちひろから、荷物が届いた。私が教室で作った指輪だった。箱をあけて指輪を出して見てみると、指輪の内側に何かが書いてあった。よく見ると猫の絵が彫ってあった。カードが添えられていた。   

ちひろさん                 もう少し料理の腕をあげてくださいね。ちひろ。私はフフフと笑って、指輪の箱をドレッサーの奥の方にしまった。

終わり。


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