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赤い傘 (KISS 2/2)

20分ほど走らせると目的の冷やし中華が美味しいと評判の中華料理店に着いた。もう閉店時間が近いのにお客さんが何組かいた。
私たちは食事をする時はあまりダラダラと食べない。目の前の料理に集中する。そんなところもよく似ている。冷やし中華は評判どおり美味しくて、一口すすって、美味しさに驚いて、目を見開いて二人で笑ってしまった。その拍子に酢の効いたスープが変な所に入って、むせて、また笑った。

食事が終わると私たちはお店に向かった。    
お店というのは私の美容室だ。         
月に一度私は祥ちゃんの髪を切る。2年前、祥ちゃんの伸びた髪を見て、何気なく髪切ったら?と提案したら、じゃ切ってよ、と言われた。
その時の私のカットが妙に気に入ったようで、毎月切ってほしいと頼まれた。営業時間内に来れないから、特別に夜、閉店後に店を開けた。
祥ちゃんは最初、普通に支払いをしようと財布を出したけど、もうレジを閉めた後で面倒だったので、代わりに夕食をご馳走してもらった。以来それが2年前から毎月続いている。

私が店の鍵を開けて、カーテンの隙間から店に静かに入り、灯りをつける。全部の灯りをつけると目立つので、シャンプー台の上とスタイリングチェアの上のダウンライトだけ。
ガラスドアの白いカーテンもひいたまま。祥ちゃんは案内をしなくても、もう勝手にシャンプー台の椅子に座る。私がハサミやコームなどの道具の入ったポシェットをかけて腕まくりをしてシャンプー台の横に立つと
「ではお願いします」と言う。      
「はい。」と私は答える。
シャンプーをしてカットをして、もう一度シャンプーをする。
30分にも満たない時間だが、凄く独特で不思議な時間。
2年前、初めて夜の貸切ったこの店で彼の髪を切った時に、この時間と空間に流れる空気の独特さに気づいてしまった。それは最小限のオレンジ色の照明のせいなのか、薄く白いカーテンで閉ざされた中にいるからなのか、とても神聖なもののように思えた。
それを祥ちゃんも感じているのか分からないけど、この時間だけは何故だか口数が少なかった。
シャンプー台の水の流れる音と私が彼の髪を泡立てる音だけが店内に響く。私は少し緊張する。ずっと隣にいるけど、決して触れない祥ちゃんの髪に私はこの時だけ触れる。頭の付け根の部分に手を当てたりもする。この緊張がどうか伝わらないようにと意識をしながら、ハサミを入れる。
祥ちゃんは目線を落として静かに切られている。
いつもだいたい同じカットだけど、この人が少しでもかっこよくなるように真剣に考えてハサミを動かす。        
「ねぇ、祥ちゃん、知ってた?私が他人の髪の毛切った初めての人って祥ちゃんなんだよ。19歳の時。覚えてる?」                「ふっ。忘れるわけないだろ、あれは。ここがまだ前田理容店だった時な?」          
「うん。私が専門でカットのテストがあるからって、祥ちゃんに実験台になってもらってさ。切ったんだよね。」                「大失敗でな、横で見てたおばさんが慌てておじさん呼びに行ってさ。結局おじさんに切ってもらったんだよ。なのにおじさん、夜でもう酒飲んでて、ベロンベロンだったから、おじさんも失敗してさ。結局おばさんがサイドをバリカンで刈ってなんとかしたんだよ。俺史上1番短くした時だったよ」   「あれ、めっちゃ面白かったね。お父さん失敗したくせに逆ギレしだしてさ。」
「順子が美容師になりたかったのは床屋の娘だから?」                   「そうだろうね。お父さんが髪を切ったり、髭剃りをするのを見るのが小さい頃から好きだった。近所のおじさんがさっぱりした姿でお店を後にするのも、いいなぁって思ってた。お父さんが死んで、この店継ぎたいって思ったんだよ。」  
「23だったっけ?」             
「そうだね」                
「俺が就職して1年とかか。お前はそこで一人で店やろうって決めたの、俺凄いと思うよ?」    
「大変だったよ。まぁ今も大変だけど。」   
普段しないような会話もここでなら許される気がした。                    「カットはこんな感じでいいですか?」    
「はい。大丈夫です。かっこいいです。」    
正面の鏡に映る自分の姿を見て、自分でそう言うと、祥ちゃんはまた自らシャンプー台に行った。タオルで髪を乾かした後、一週間お疲れ様。と言うように念入りにマッサージをする。お客さんにしているのと同じように出来ているのか自分でも不安になる。だいたいいつもこの時に祥ちゃんは寝てしまう。疲れているんだな。      
「ちょっと、祥太郎さん、終わりましたよ。」  
私が肩を軽く叩くと
「はっ、寝てた」と毎回言う。
「ありがと」そう言ってこの時間が終わる。
 

片付けて、エアコンも次は切って、またお店に鍵をかける。
車で祥ちゃんの家まで送る。私の店からマンションまでは10分かからないぐらいだ。車を走らせると雨が降ってきた。
祥ちゃんのマンションの裏にいつものように車を停めると、雨の降りが強まってきて、ワイパーを速めた。                    「もうちょい止むまで待ったほうがいいよ」と私は言った。
「そうする。」祥ちゃんが答える。   
激しい雨音とワイパーの音が響く車内。     
フロントガラスに打ち付ける雨を見つめていた時、不意にキスをした。
さっきのシャンプーの甘い匂いを近くで感じた。
ただ触れているだけのキス。
それはとても長く感じて、思わず目を閉じそうになった。
驚いた振りをしなくてはいけない気がして目は開いたままにしておいた。
祥ちゃんの唇が離れる瞬間がスローモーションのようで、伏し目がちにした瞳で私を一瞬見て目が合ったけど、すぐに逸らした。 
祥ちゃんと私は何事もなかったかのように窓の外を見た。                   「なんでなんも喋んないの?」私がポツリと言うと
祥ちゃんは窓の外を見たまま
「な、なんも言えねぇ…」と言った。
咄嗟に私が「え?北島……」と口にすると、
やっと私の顔を見て
「ふざけたわけじゃないからね…」と一言言った。 「もう雨、さっきより弱くなったよ?傘ないでしょ?これ持ってっていいよ。」と後部座席の下に置いてあった傘を祥ちゃんに渡した。       真っ赤な傘。                
祥ちゃんは「ありがと、おやすみ」と言って車から降りた。
私の赤い傘をさして、エントランスの方へ歩いて行った。
いつもなら振り向いて大きな手をこちらに向けるのに、今日はそれがなかったのはどうしてなのか、考えないようにした。

家に帰ると母はもう寝ていた。もう一度シャワーを浴びた。
明日も仕事があるから寝なくてはいけない。なのに寝られなかった。
さっきのキスを何度も何度も思い出して寝られない。                     なんでキスをしたんだろう。なんで今だったんだろう。
あの時私の肩に置いた手はなんであんな優しかったんだろう。
最後私の目を見て何を知りたかったんだろう。  雨が強く降ってあの静かな時間があったせいであんなことになったのかもしれない。最後あんなふざけた返しをしなかったほうがよかったかもしれない。もしあの時、私が何かのスイッチを入れていたら二人はどうなっただろう。でも私はあそこでスイッチを入れられるほど大人じゃなかった。      そう考えながらいつの間にか寝ていた。     
次の日の土曜もいつも通り働いた。つもりだったけど、気づくと昨日の祥ちゃんの顔や匂いを思い出してしまうのだった。
大人なのだから、キスぐらいなんてことないのかもしれない。
また来月も何事もなかったかのようにまたきっと会えるだろう。
謝られたらどう答えたらいいのだろう。本当に会えるだろうか。
  

日曜の仕事中も頭の中に祥ちゃんがいた。
最後の予約のお客さんのカットがもうすぐ終わろうという時、かなちゃんがお店の外に出て行くのが見えた。
戻ると私に「順子さん、あの方、順子さんの知り合いですか?髪を切りに来たみたいじゃなさそうだけど。」
店の外に赤い傘を持った祥ちゃんが居た。 
目が合うと遠慮がちに手を上げた。       
鼓動が早くなるのが分かった。         
かなちゃんにその男の人に中で待ってもらうように伝えて、と言った。
レジの前の雑誌が色々と置いてある席で15分ほど待ってもらった。
かなちゃんは不思議そうに祥ちゃんをチラチラ見ている。    
お客さんが帰ると、「片付くまで待っていい?」と祥ちゃんは言った。
だけど、なぜだか私は待てなかった。ひどく動揺していた。              
かなちゃんに今日は帰っていいよ。と言って、半ば強引帰らせてしまった。

「とりあえず外に出よっか」
近くの公園に向かって歩いた。   
祥ちゃんは私の赤い傘を持って歩く。    
公園につくとベンチに座るでもなく立ったまま傘を差し出しながら
「これ、返しに来た。ありがと」と祥ちゃんが口を開いた。           
「こんなんいつでもよかったのに。」     
「あの~、なんというか、こないだのこと、謝りたくて、店まで来てしまった。謝るってのはさ、ああしたことじゃなくて、順子になんの許可もなく突然して、悪かったなぁって、後から凄く反省したというかね」   
「うん」                  
「よく考えたら、凄く嫌だったかもしれないよな…って。ごめん」              
「…それは大丈夫だよ」
少し間が開いて     
「順子はここは腐れ縁だって思ってる?」と自分と私を指さして尋ねた。        
「…………思ってないよ。腐らないようにずっと大事にしてきたもん」               自分の語気が僅かに荒くなるのが分かった。声が震えて泣いてしまいそうだった。そんな私を大きな黒目でじっと見つめて祥ちゃんは言った。



「結婚しようか」



予想もしない言葉で私は反射的に眉をしかめてしまったけど、同時に涙が溢れてしまいそうで横を向いた。
奥歯にグッと力を入れて、何か言わなきゃと思った。                    
ありがとう嬉しいです。私もずっと一緒にいたいです。
それが答えなのに、また意地を張ってしまって涙声で「急だなぁ」と絞り出した。      
「今すぐにじゃないよ?それぐらいの気持ちですってこと。」                 「そういうことね」             
「順子と友達でもいたいし、恋人でもいたいと思ったんだ。好きですってことを抑えるのがもう無理で、そういうのを出してもいい?」      「私も素直になってもいいの?」       
「いいよ。」                
「誕生日とかクリスマスとか誰と過ごしてるのかなって気にしなくても、もういい?なんも気にせずお祝いしてもいい?」             「いいよ。」


祥ちゃんは私を見て笑って、荒れた手に触れて優しく指を撫でた。              
夕日が沈んで赤く染まる公園で私はやっと本当のことを言った。


終わり。


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