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自分の気持ちを言葉にできない話


涙が止まらない


今日の夜、NHKで引退後の宮崎駿を密着したドキュメンタリーをやってた。イッテQを見終わって、スマホいじってたらいつの間にかNHKに切り替わってて、なんとなく見始めた。ジブリ好きの妹がチャンネルを変えたんだと思う。


すごく感動した。
いや、うーん、一言でまとめると「すごく感動した」で間違いないんだけど、でも違う、そうじゃない、もっともっとすごいものを感じた気がするんだよなぁ。


そもそも私はあのドキュメンタリーを見て、どういう気持ちになったのか正直わからない。胸が高鳴る感じはした。新しいタイプの高鳴り方だった。少し急かす感じの高鳴り方。ちょっと不安になる感じの。それにふさわしい言葉がわからない。

ふさわしい言葉が見当たらないのか、あるいは、本当は何も感じていなかったのか。それすらわからない。胸の高鳴りを感じたのは確かだけど、その胸の高鳴りは、自然に生まれたもので私の素直な感情からなのかどうか自信がない。知らず知らずのうちに番組から強要された感情なのかもしれない。心臓が物理的にドキドキしたことを「胸の高鳴り」とかいう心情的なものに瞬時に判別してしまっただけなのかもしれない。

よくわからない。
自分の感情って本当に難しい。

昔から楽しいのか、嬉しいのか、悲しいのか、よくわからなかった。好きとか嫌いとかもわからなかった。それをわからなかったことすら、長い間わからなかった。自分の感情がわからない、というか、感情がないことに気付いたのは一年前とかそこら。だから、約二十年間、よくわからないまま生きてきた。


じゃあ、意見を求められたときや何か決断しなきゃいけないときはどうしてたかというと、「どういう反応をしたら相手は喜んでくれるか」「どういう反応をしたら相手は私を良く評価してくれるのか」を考えてた。無意識に。

思い返せば、中学生の頃、避難訓練の後に自己評価カードみたいなのを書かされたんだけど、「ルールを守って避難できましたか?」みたいな五段階で評価する質問がいくつか続いたあと、自由に感想を書く欄があったの。みんながさ、書くことないよ〜って言ってるんだよね。そんな中で私はサササーっと書けちゃってさ。しかも欄びっちりに。そんときは早く書けたことが誇らしかったけど、でも今思えばさ、毎年、しかも年に数回する避難訓練に対して、先生に見せられるような感想とか持つか? 避難訓練とか面倒なだけじゃん。先生の話とか、どっかの偉い人の話とかを全校生徒一緒になって聞くなんて、絶対つまらないじゃん。絶対退屈じゃんね。それか、授業がなくなってラッキーとか、いつもと違う雰囲気にわくわくしたとか、そういう感情じゃん。でもそういうことって、先生に見せられないじゃん。だからみんな悩んでたんじゃん、書くことないよ〜って。なのに私は書けたの。欄びっちりに。欄びっちりに書けるくらい、先生に求められてるような優等生の解答がすぐに思い浮かんだってこと。ぜーんぶ嘘なんだよ。実際なんて書いて提出したのか具体的には思い出せないけど、絶対少しも思ってないことしか書いてなかったと思う。

中学生なんか皆そんなもんなのかもしれないけど、避難訓練以外にも、もう全ての出来事においてこれだったんだよな、私。

高校生になって、友達と会話してるとき、「楽しかった?」って聞かれたの。何の話題だったか忘れちゃったけど…。聞かれたとき、瞬時に答えられなかった。だってわからないんだもん。楽しいって感情が、どういう感情なのか未だにわからない。だから今もこの手の質問は苦手。「楽しいぜー!最高だぜー!」ってはしゃいでるときも、正直本当に楽しいのかどうかわからない。ただ、私がはしゃぐと皆もはしゃいでくれて、盛り上がることはわかる。盛り上がるとみんな嬉しそうに笑うしね。

なんかこういう書き方すると、何の感情も捉えられない人みたいだな(笑) そんな大袈裟じゃないんだけど…、うーん。。。皆が笑ってると嬉しい、友達から手紙が届くと嬉しい、オタ活してると楽しい。だからね、全部が全部わからないわけじゃない。でもなんだろ、何の感情もわかないことが多すぎるんよな。いろんなコトに対して、肯定も否定もない。そんなもん? そんなもんなのかな。こんなにコンプレックスに感じなくてもいいんかな。



だったら、肯定も否定もないってなんで自覚できなかったんだろう。
なんで嘘こいて、優等生の解答を、なんの疑いもなく、つらつらと書いてたんだろう。
心の奥底から感じてたことって、なんだったんだろう。





まただらだら長ったらしく書いて…
もっと簡潔に書けたらいいんだけどどうすればいいのかわからない……


何書こうとしてたんだっけ、忘れちゃったよ(笑)





そうそう、でね、宮崎駿のドキュメンタリーを見て、そんときは胸が高鳴ってた気がしてたから、どういう気持ちになったのかまとまってなかったけど、ちょうど二階から降りてきた母に伝えたくなったの。

「ドキュメンタリーがおもしろくってね、感動した。ちょくちょく宮崎駿の周りの人が亡くなってしまうんだけど、それの影響か、『もうすぐ死ぬかもしれない』みたいなことを宮崎駿がちょくちょく言ってて、はぁ〜〜そうかぁぁ〜〜〜〜と思った。『死にたくないと思ってるうちに死にたい』とも言ってた。」

みたいなことを言ったんだよな、たしか。
いや〜書いてて思ったけど、本当に何を伝えたかったのかわかんねえな。今もわかんない。なんでとりたてて「死」の話をしたのかもわかんない。

母はね、これを聞いて、自分の過去の失敗とか、今一生懸命になってる勉強のこととか、だからあなたにも今一生懸命勉強して欲しいとか、まぁいつも話されることを話されたんだよな。これだけの情報じゃ意味わからないと思うけど…


宮崎駿はもう75歳でたぶん体力もそんなないだろうに、でも自分のやりたいことをしてた。そんな人ってほんのちょっとしかいないんじゃないかな、って言ったら、母は自分もそのうちの一人だ、みたいなことを言ったの。ああ、上手く表現できない。でもね、なんだろ、宮崎駿と母がまるで同じレベルにいると思ってるような感じを受けて、腹が立ったんだよね。調子に乗るな、って意味じゃなくて、ドキュメンタリーを見た私にとって宮崎駿は卓越したところにいるのにそれを伝えられなかった、って意味で腹が立った。母を卑下するんじゃなくて、そうじゃなくて、宮崎駿がかなり上にいるっていう私の感覚を伝えたかったのに。


他にも何度か言葉を交わして、やっぱり自分の伝えたいことと全然違うことを話題にされてるなぁと思ったら、泣けてきた。それと、あなたにも一生懸命勉強して欲しいとか、楽しい人生を送って欲しいとか、そういうことを言われるのは腹が立った。いかにも今私が一生懸命勉強してなくて、楽しくない良くない人生を歩んでるみたいで。私のことなんか何も知らないくせに。それ以降、涙が止まらなくてなんにも話せなくなっちゃった。母が「何か悪いこと言っちゃったかな」って言ってた。そりゃちょっとはイラついたけど、そのイラつきって毎日感じてることで別に突然泣き出すほどでもないんだよな。涙の理由の9割は自分が伝えたかったことがわからなくって、上手く言葉にできなくって、悔しいからだった。自分のせいだって、自分を責めちゃってたらどうしよう、傷つけちゃってたらどうしよう、ごめんなさい…

伝えたいことを伝えられなくて泣くなんて赤ちゃんみたいだなぁと思った。情けない。ごめんね。

少し収まったとき、「伝えたいことがうまく伝わってなかった」と言ったら、「お母さんがちゃんと聞いてなかったからかな…。お母さんも見ればいいのか」と言って、録画を見始めた。少し収まったと言っても、まだ涙が止まってたわけじゃないから、そのあとは涙で何も言えなかった。

複雑な気持ちだったな。話し合ってるとき、録画を見て欲しいなとは思ってた。でもそのタイミングで見て欲しいわけじゃなかった。だって私に気を遣って見るってことでしょ。そんなことして欲しいわけじゃなかった。けど、そんなこと言ったら母を責めてるみたいに思われそうで言えなかった。

母が録画を見ている間、私はお風呂に入ってた。頭の中では言葉が溢れて止まらなくって、涙も溢れて止まらなかった。お風呂を上がっても止まらなかった。リビングにメガネを取りに行ったら、お母さんが「この人すごく精力的だね」と言ってた。まだ泣き止んでなかったから言葉がスムーズに出なくて「うん」としか返せなかった。「気を遣わせてごめんね」と言った。悲しい気持ちでごめんねって言いたかったのに、口から出たのはイラついた感じのごめんねだった。なんでこうなっちゃうんだろう。これを受けて母は「いやいやいやいや……」と言葉を濁した。あー、気ぃ遣わせてんだな、と思った。私のせいでどうでもいい時間を取らせちゃったな。



涙が出ると厄介だ。言葉が詰まって、何も言えなくなる。だからいつもは涙が出る前に何か言うのをやめる。

でもそれじゃだめだとも思ってた。こんなんじゃ一生誰とも理解し合えない。一生誰も私のことを理解してくれない。だから今日は結構突っ込んだ。でも、「自分の伝えたかったことはそういうことじゃない」って言えなかった。「どうしてその話が宮崎駿からつながったの?」って言ってる途中で泣いちゃった。はーあ。だめじゃん。




もう夜中の1時半。寝なきゃ…
本当はドキュメンタリーそのものについての心に残ったエピソードとかも書きたかったんだけど…
いい加減泣き疲れた。
明日ちゃんと謝れるかな。





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