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【夫を許すことにした】3年半別居して行き着いた先とは?

こんにちは。Webライターの冨田裕子(とみたひろこ)です。

今週の金曜日は3月3日。
ひな祭りでしたね。

5歳の娘が生まれたときに、プレゼントしてもらったひな人形を見て、
ふと思いました。

今年は夫と見られたなと。

そうです。
見られない年もあったんです。

  • 娘0歳 別居

  • 娘1歳 同居

  • 娘2歳 別居 (息子誕生)

  • 娘3歳 別居

  • 娘4歳 同居

  • 娘5歳 同居 ←今ここ

その経過が長年の夫への恨みつらみに変わっていました。

単語だけ見ると怖いですね(笑)
そんな色んなことがあった日々を振り返りたいと思います。

なぜって?
私も夫を許そうと思える出来事があったから・・・

◆娘0才。夫の単身赴任スタート

2017年8月に、第一子の娘が誕生しました。

喜びもつかの間、私は不安の最中にいました。

なぜなら、1か月後に夫の海外赴任が決まっていたから・・・

さかのぼること、2016年の年末
私は、自分の体に異変を覚えます。
妊娠していたのです。

10月に結婚式を無事にすませて、11月にはハネムーンへ
仕事はともに忙しいけれど、幸せは絶頂でした。

妊娠初期と年末が重なり、産婦人科で妊娠が確定できない不安の中にいました。

そんなときに、夫が相談をもちかけます。

「来年、海外赴任になりそう。自分も試したいけれど、行ってもいい?」
とのことでした。

私「ん??私、妊娠してるよ。子どもと私はどうなるの?」
夫「半年後から帯同ができるよ」
私「初めての子育てを海外でするの?怖くていやだよ。子育ても海外のことも分からないのに。行きたくないよ」

私の意見を伝えましたが、夫の心は決まっているようでした。

夫は、結婚する前から、英語を猛勉強していました。
なぜなら、会社の制度を利用して、海外の大学で学位を取得したかったからです。

制度に応募して、見事合格。合格から数年以内に入学する必要がありましたが、その前に海外支店で働かないかと異動話が持ち上がったのです。

妊娠がなければ、大賛成でした!

私も働きながら資格をとったり、学ぶことが好きでしたから。
だから、学び続ける夫に惹かれたんですけどね。。。

でも、まさか1人で子育てするとは、夢にも思いませんでした。

娘が生まれた1か月後。

お宮参りをした次の日に、旅立ちました。
悲しくて、不安で、私はずっと泣いていました。

今思えば、産後のホルモンバランスが崩れていたのも相まっていたと思います。

娘はとにかくよく泣く子でした。
日中はすきあらば泣く。

実家に戻っていたので、母と交代で抱っこ。
それでも、手首が腱鞘炎になりました。

夜中に娘が息をしているか不安で、何度も目が覚めました。

さらに、母乳が全然でないのも悲しみを助長します。

母乳をあげることに躍起になって、授乳に1時間くらいかかりました。もちろん、寝不足。
3時間おきの授乳は地獄そのものでした。

うまく眠れなくて泣きぐずる娘を連れて、毎日2時間近く、ベビーカーでぐるぐる歩き回る。
今では、懐かしい思い出です。

こういう日々の苦労も、近くにいないと夫には伝わりづらいんですよね。

夫もねぎらったり、感謝したりするのが苦手で、次第にフラストレーションがたまってきたのでした。

  • 孤軍奮闘しているのに認められない

  • 私はすべての時間を子どもに捧げているのに、夫はキャリアを積めている

不公平に思えた状況に、イライラは急上昇!
腹立たしさの矛先を、夫に向けました。

たまに一時帰国すると、自分なりに子育てしたいという夫。私がようやく作り上げたルーティンをぶち壊し、せっかくの家族時間が険悪そのものに。

自分なりの子育てがしたいというけど、数日後にはいないじゃん!
娘とのルーティンをかき乱さないで!

と、大喧嘩。

戻ってしまった後も、はらわたが煮えくり返っていました。毎日話していたLINE電話も、とうとう週1回になりました。

夫は電話が少ないことに、不満そうでしたが、私も娘が落ち着いているときくらい、自分の好きなことをしたかった。
そう、息抜きがしたかったのです。
とにかく、娘から意識を切り離したくてたまりませんでした。

初めての子育ては分からないことばかりで、うまくいかないし、落ち込むことばかり。現実逃避したくなることばかりでした。

だから、夫に全てをなすりつけてしまった。

「こちらが電話しても会社にいて、落ち着いて話せないでしょ?」と夫のせいにして。

そう。単に話したくなかった。
憎しみがどんどん大きくなっていったのが0歳のとき。

この時のひな人形は、実家の家族と楽しみました。

◆娘1歳。シンガポールへ移住

娘が1歳になると、私たちも海外に帯同することになります。

  • 海外で子育てできるの?

  • 子供用品は買えるの?

  • 安全面は大丈夫なの?

不安は尽きません(基本、不安症なので)

それに、夫との不仲も加速していました。

誰も知り合いがいない中で、一緒に暮らせるのか。

でも、子どものかわいさを、私だけが享受するのは不平等だ。

子どものかわいさを夫にも味あわせてあげたい。
あわよくば、第二子を授かりたい。。。

そんな切実な思いとともに、移住を果たします。赤ちゃんとの海外移住は、当時の私には恐怖でしかありませんでした。

不安をよそに、移住したシンガポールは開放的で、とても自由な雰囲気でした。
みんなのんびりしていて、優しい。
いつでも知らない人が声をかけてくれて、助けてくれました。

家族3人で暮らすようになって気づいたこと。
それは、家事も子育ても率先してこなしてくれる夫の姿でした。

そうなんです。

思い返せば、結婚してから家事は折半してました。家事全般できるので、私が遅く帰っても全く問題ありません。
むしろ、綺麗好きで片付け上手!

そんな新婚当初の出来事を思い出しました。

娘も1年間離れていたパパに懐いてくれました。夫婦の距離もまた近づき、平和な日々が流れました。

そして、移住して数カ月。
第二子を妊娠。

ここから、また悩みが勃発します。
出産をどこでするか?

  • 日本?

  • 海外?

私の希望としては、このまま海外で出産することでした。

  • 距離で不和を生みたくない

  • 次の赤ちゃんは、一緒に育てたい

夫の回答は次のとおりでした。
「産休がとれないから、娘を見られない。」

そうなんです。
私が入院している間に、誰かが娘を見なければなりません。夫は無理。シッターさんを雇うより、安心して産むためには日本に帰ろう。

やっと慣れたところで、10か月後にトンボ返りしたのでした。

1歳のひな人形は、シンガポールで夫と見られました。

◆娘2〜3歳。息子の出産とコロナ禍

羽田空港に到着したとき、涙が溢れました。
無事に日本に着いた。
これで、何かあっても大丈夫だって。

海外の医療費はびっくりするくらい高額です!
保険に入っているので還付されますが、一度は自分で支払わなければなりません。

ましてや、緊急で入院が必要になると、数千万〜億のお金が必要になることもあります。

だから、お腹の赤ちゃんに毎日言い聞かせてました。「お腹の中で、元気に育ってね!」と。

なので、日本に到着したときは安堵しました。
日本の医療制度はありがたいですよ。

そして、2019年9月に息子が爆誕。
3,600kgを超えるビックベビーでした。

もちろん一人で分娩。
陣痛が来た時も、自家用車で運転して向かいました。

看護師さんにめちゃくちゃ怒られましたけどね。皆さんは、真似しないでください。

息子を出産後、2人育児が開始。

退院した次の日、出生届を出しに出張所へ。
運転中、意識が朦朧として運転が危うかった。
まだ、産後の疲れも残っていて、3時間おきの授乳で寝不足もMAX。
よく無事に帰れたと思います。

2人育児は、とにかく余裕がない!
1人と全然違う!!


2歳の娘は絶賛イヤイヤ期。
なんでも自分でやりたい、自己主張の強い子だったので、とにかく手がかかる。。。

産後のホルモンバランスで怒りに向かうことが多かった。

そういう苦労を今回も私1人で乗り切る辛さよ。。
もちろん、実家にいるから家族の手助けは受けられます。

でも、家族になった人と、子どもの成長を一緒に見られない寂しさは想像以上でした。

だって、想像してください。

◯ヶ月で、寝返りしたね!
◯ヶ月で、ハイハイしたね!
離乳食は、◯◯が好きだったよね!

そういう共通話題がないんです。
しかも、子ども2人とも。。。

電話越しでは伝えられない、その場の感動や景色もまるっと記憶したいのに。

追い討ちをかけるように、コロナ禍がスタート。一時帰国のはずが、いつ戻れるか分からなくなりました。

当時、シンガポールはロックダウン中。
一度、国外に出ると再入国できないので、夫も一時帰国が叶わず。

結局、2、3歳のときは、シンガポールで飾られたひな人形。どんな気持ちで、夫は眺めていたのかな。。。

◆娘4歳。ようやくシンガポールへ再移住

コロナ禍でいつシンガポールに戻れるか分からなかったので、実家近くの幼稚園に入園した娘。
早いもので年少となりました。

とにかく人見知り。公園に誰かお友達がいると、「かえる!」と拒絶するレベルでした。

お友達と遊ぶ機会もほとんどなく、(この頃、児童館や図書館など遊び場は、軒並み閉まってました)人見知りに拍車をかけていました。

そのため、入園してからが、まぁ大変。
ママにしがみついて離れない。

それでも、根気よく先生が付き合ってくれたり、仲がいいお友達ができると、幼稚園を楽しんでくれるようになりました。

娘が入園して半年。

夫からシンガポールに入国できるようになることを聞かされます。

さて、どうしようか?

娘は幼稚園にやっと慣れて、お友達もできた。
娘を尊重する?

でも、私の心は決まっていました。

家族で一緒に暮らしたい。
だって、夫と離れて住み出して、2年3ヶ月が経過していましたから。


お腹にいた子は、2歳に。
2歳だった子は、4歳に。

月日の流れは、時として残酷です。

その変わり目を見られなかった夫を思うと、かわいくてたまらない子どもたちを共有したいと思いました。

娘に相談すると、神妙な面持ちで了承してくれました。子どもたちもパパと一緒に住みたかったのかな?

そして、とうとう幼稚園の退園日。

「なんで◯◯だけやめなきゃいけないの?ずっとようちえんにいきたい!」
と大泣きの娘。


娘にとって、はじめてできたお友達と先生と別れるのは、想像以上に寂しいことでした。

パパに電話をつないで、シンガポールに行きたくないと懇願。
娘が泣きながら訴える姿を見たら泣けてきて、みんなで泣いて娘を慰めたのでした。

悲しみを乗り越えて、2年ぶりのシンガポールへ再移住。

すっかり様相を変えていたけど、実はずっと戻りたかった。

理由は、1度目の移住のときに、シンガポールをよく知れなかったから。1歳の娘から目が離せない上、妊娠中のため不完全燃焼だったのです。

実は、かねてから海外に住みたいと思ってました!だから、棚ぼたのように住めることになり、内心では嬉しく思う部分もありました。

だから、再移住を果たせたときは、これで希望を叶えられると、息勇んでいました。

もちろん、心労や大変なこともありましたが、
2回目の移住は私の人生を変えました。

そして、4歳のひな人形は、実に3年ぶりに、シンガポールで見られたのでした!

◆5歳の娘。本帰国と退職とWebライターとして再出発

シンガポールへ再移住して半年。

なんと、本帰国の命がでます!
心底驚きました。

詳細は次のnoteをよかったらご覧ください。

そして、流れに乗りながら自分の人生の転換を決断し、無我夢中で駆け抜けて今に至ります。

色んなことがありました。

そして、夫も変わり、すごく協力的になりました。
夫が変わった話は以下のとおりです。

◆ペルソナ設定が肝!

なぜ、夫が変わったのか?
それは、Webライターなら、誰もが知っているペルソナ設定にありました。

記事を書く際に、ペルソナを設定し、刺さる記事を作成します。

つまり、夫に刺さる言葉を発していなかったことが、すれ違いの原因でした。

私は「共感」や「ねぎらい」など、情緒面を大切に生きています。
今までは私の希望を沿うように、私に刺さる言葉を選んでいましたが、夫に響いていなかった。

恐らく、夫はイーブンな関係を求めています。

自分がこれだけ家事をやったのだから、同じ分量の家事をしてほしい。
自分はこれだけ仕事しているから、同等まで働いてほしい。

夫婦といえども、違う文化の人と暮らしていることを認識しなければなりません。同じ思考ではないのだと、ライターをやって気がつきました。

  • 夫が協力したことで、アップした収入を提示する

  • 夫が家事を助けてくれたら、自分も違う場面で貢献する

一見、自分が不利のように思うけど、ペルソナを満たしたら、今までとは異なる働きを見せ、結果、私も仕事がしやすくなりました。

ライターの仕事を始めてよかった(笑)

夫婦関係も改善してきたところで、いつまでも過去に縛られず、現在、未来を見ていこうと思います。

長々と、私の記事にお付き合いいただき、ありがとうございました!

人生は山あり、谷あり。
全ては自分の身になります。
もっと、自分もレベルが上がれるよう精進しよう!

また、来週会いましょう!


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