父から受け継いだチャレンジ精神
「わが家の家訓は、チャレンジ精神!」
中学生のときだっただろうか。
父が話していたことを覚えている。
思春期の私は若干シラけていたけど、なんだかワクワクしたのを覚えている。
そんな父は、私が中学校2年生のときに脱サラをして個人事業主になった。いわば、フリーランスだ。今から27年前だから、相当先取りした人生だったろう。
当時、子どもたちは高1の姉と中2の私、小6の弟。これから物入りになることは、子どもの私でも予想された。
不安で仕方なくて、父から話を聞いた時は私だけ号泣した。母も俯いて、不安そうな顔をしていたのを記憶している。
その後、金銭トラブルや仲間の裏切り。
本当にいろいろあって、わが家は極貧時代に突入する。
洋服を買ってもらえるのは、誕生日とクリスマスだけ。5,000円でいかに気に入った服を多く買うか、その時に物を見る目がかなり養われた。
父は働くかと思いきや、職業訓練で資格を取りマイペースに動いていた。わが家の収入は母のパートのみとなり、生活はギリギリだった。
そんなお金がないわが家だったけれど、父は父なりに寄り添ってくれた。
私が中3のこと。
いろんな高校の学校見学や学祭に参加して、どの高校を受験するか見定めた。共学のとある高校に行くつもりだったけど、なんだかしっくりきていなかったのが正直な感想だった。
姉が通っているから。
その理由で、姉の通う高校の学祭に足を踏み入れた。県内トップ校の女子校だった。
難癖つけて、その高校を落として見てた。
でも、本当は憧れていた。だって、私がいつも影響を受けていた姉が入学していたから。
学祭当日。
その女子校に行ったら、先輩方がキラキラして見えた。自主性を重んじている校風のため、自分で考えて行動している方が目に映ったからだ。中学校にそんな人はいなかったから、自分の意見をしっかり話す先輩がカッコよく見えた。
雷に打たれたように全身で実感し、即決した。
そこから勉強にすべてを投じることになる。
しかし、わが家には塾に通うお金はない。
そこで、父がつきっきりで勉強を見てくれた。
答えを間違える自分に腹が立って、父に八つ当たりした。父も言い返したけど、見離さずとことん付き合ってくれた。
そして、結果発表の日。
当時はネットが普及してないため、高校に張り出された受験番号を見に行くのが、結果を知る唯一の方法だった。
父と母、私の3人。
車で25分の道を、父の運転する白のレガシーで向かう。
車中では父が励まし続けてくれたけど、母と私は黙っていた。そして、高校が近づくにつれて私はお腹が痛くなり、後部座席で座っていられず横たわった。
でも……
もしもが頭をよぎる。
そして、その想いが心をどんどん侵食してきた。
そうこうしているうちに、高校近くの駐車場に到着。
私は立っていられないくらいお腹が痛くて、自ずと足取りも遅くなった。
母は心配そうに私の体を支えてくれた。
私の自信は地にまで落ち、自分で結果を見るのが怖くて見に行けそうにない。仕方なく、確認を父に託した。
同じように結果を見にきている学生と保護者の波をすり抜けて、父は小走りに張り紙の方向へ進んでいた。
私はさらに遅い足取りでなんとか進んで行った。私だけ重力が異なる世界にいるのかと思うほど、体が重くてうまく前に進めない。
すると、人の流れに逆らい、走って戻ってくる父の姿が見えた。
距離にして30m先で立ち止まり、両手をゆっくりと両側に上げたと思うと、頭の上で丸印をつくった。満面の笑みを携えて。
その瞬間、私は母の手を振り解いて全力で駆け出した。お腹の痛みは一瞬で消え失せた。合格の張り紙近くにいくと、合格者の歓声が聞こえた。
私の高校受験は桜が咲いた。
そして、今。
39歳で地方公務員を辞めてフリーランスに転身した。なんの成功も約束されていないけれど、第2の人生で活躍できることを夢見て1年半が経つ。
今ではライティング以外にも、好きなイベントの企画やそれに伴う司会に需要はないかと試行錯誤している。
そして、私のようにチャレンジしている人の背中を押せないかと模索している。
その言葉は、私の人生の教訓になり、私を支えている。
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