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ねこまんま

かつて、八戸のネコ感業界の缶詰技術者のおじさんと電話で話したことを思い出した。その会話を再現するとこうなる。おじさん曰く、
「よくお客さんから文句が来るんですわ。『ネコが移り気で次から次へと缶詰の嗜好を変える。いったいどうなってるんですか』って」
ここで私はごくっと唾を飲む。おじさんはなんと答えたのだろう。
「ネコはね。母親から乳ばなれしたときに最初に食べた味を一生忘れないんですよ。そして生涯その味を追い求める。そのネコ缶がミクロネシアのマグロだったらその味をね。だから同じブランドの缶詰でも魚の原産が違うと振り向きもしないってことがあるわけです。これはメーカーの責任を超えますわね」
「じゃあ……どうすればいいのですか?」
「簡単なことです。乳ばなれしたら、家庭の残飯に味噌汁なんかをぶっかけたのをやればいいんです。ネコは一生それで満足しますよ。私の家のネコなんか残飯しかやってません」。「!」。「これはメーカーとしては秘密ですがね」。「‼」。なんとも愉快な話である。

清水靖子『新版 森と魚と激戦地』より

「ネコの飼いかた」みたいな本を読むと、人間のゴハンは塩分過多ほかあれやこれや禁忌があるから専用のフードを年齢に合わせて……などとあるが、こういう刷り込みがあるとなれば、ある意味ブラックボックス化したペットフードというのも良し悪しなんだと知る。ペットの長寿命化には間違いなく貢献しているのだとしても。

畜産であれば飼料は経済性の向上という観点から決定されるのだけれども(たとえば乳牛、「グラスフェッド」で収量が減少したとしても、それに市場が高水準の価格をつけるのならば見合う。動物福祉の観点が入ってきたとしても最終的には市場経済に落とし込むことになる)、ペットへ対するエサなり医療なりのケアは「経済性」というラインがない。底なしにすることもまた可である。もともとが飼主の心の充足のためにやっていることであって評価がむつかしい。

「社畜」とは、それを逆に表しているわけで。単に滅私奉公的労働のみを指すのではなく、社会においてペットとヒトとを比べるとはるかにヒトのほうが経済動物である。経済動物であるからこそ、社会からの処遇なり個々のふるまいなりがそれなりに決定されていく。否が応でも。

もともと寺町のここはスーパー店頭の仏花とか、コンビニ、100円ショップの蝋燭線香などの品ぞろえはやけに、というか当然によい。と同時にペットトリミングや動物病院の看板も妙に目立つ。死者とペットは別物のようだが、一般的な「経済性」のラインに乗ってこないもの同士というのが共通点だな、と日々感じている。


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