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オープンプラットホーム通信 第193号(2023.3.25)

オープンプラットホーム通信とは、福岡を拠点に活動していうNPO法人ウェルビーイングが毎月発行しているメールマガジンです。noteではバックナンバーを公開していきます。
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はじめまして。
NPO法人ウェルビーイングは、人々のwell-beingの実現するために自ら活動することを目指し、全国各地で活動している人たちを結び、集まり、分かち合い、元気になるオープンプラットホームの実現を目指しています。
well-beingとは、「良好な状態、安寧、幸福」という意味です。このメルマガでは、ウェルビーイングに集う理事や会員のそれぞれのウェルビーイングな日々やアンウェルビーイングな日々を綴ったエッセーをお届けします。

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喫茶去 
第92回 よいということ(11)番外篇(続)


シャクティ(力能)というコトバがあります。6-7世紀に教典化されたヒンドゥー教のひとつの太い流れ(シヴァ派)でさかんに用いられました。それ以前の、前回ふれたタパス(熱力・苦行)らとの大きな違いは、そこに女性原理が導入されていること、ゆえに性的な力能への傾斜をもって「性力」とも訳されることでした。でもそこから秘儀的であやしげな闇の領域にふみこむ前に、当時しきりに説かれた「神妃思想」とは何かを考えないと。

インド神話の入門書にはヒンドゥー教の二大神ヴィシュヌとシヴァにはそれぞれの相方がいて、ヴィシュヌ+ラクシュミー、シヴァ+パールヴァティのカップルが紹介されます。紀元以降の叙事詩・古譚を追ってみると、ところがこのカップルが異様にたくさんの呼称と属性をもって活躍する場面にぶつかります。ヴィシュヌの場合、化身する神として十の変化形をもち、亀・魚・人猪・人獅子・矮人・クリシュナ・ラーマ…というように個々の神話的エピソードの主人公として登場しますが、人の形をとった変身形にはそれに対応するラクシュミーの変身形が想定されます。分かりやすいのは『ラーマーヤナ』のラーマ王子+シータ妃の対ですね。それぞれが親しみのある神と女神の生まれ変わりとして冒険譚にあらわれてくる。

シヴァの場合はこれとだいぶん違って、ヒマラヤの森でひたすら苦行する本人を軸に、女神のほうがしきりに化身するのです。シヴァの純情となづけたいサティとの悲恋(父ダクシャ王の反対・サティの自殺・遺体をかかえて放浪するシヴァ・介入するヴィシュヌ・108か所の埋葬と巡礼地化・そして山で苦行に専念するシヴァ)を前史として、サティの生まれ変わりであるパールヴァティが世界救済のためにシヴァに近づこうとします。タラカという魔物の世界支配をくつがえすにはシヴァの息子の力が必須だというので、なんとかパールヴァティにシヴァの子どもを生ませようというのです(気の長い話ですが、千年の苦行とか平然と云ってしまうインドなので)。ところがサティの死後の苦行にうちこむシヴァは女性にいっさいの関心を示しません。一計を案じた神々が欲望の神カーマを送りこみ、愛の花の矢を放つのですが、その瞬間にシヴァの眉間にある第三の眼がひらいてカーマは灰になってしまいます。これを眼前にしたパールヴァティは心をかえ、シヴァと同じ苦行の道に入ります。うん。何年だっけな。とにかく千年単位の長い苦行をへて、シヴァの試練をへたのちに、パールヴァティはかれと結びつくにいたります。民衆画で云えば、象の頭のガネーシャと軍神スカンダ(親しみのある名は韋駄天[いだてん])を抱いたこのカップルはまるで聖家族のように敬愛されることになります。

さてこの妃パールヴァティはインド世界を跋扈[ばっこ]する魔物たちを前に二度の変身形をみせてくれます。子神を抱えた穏やかなシヴァ・ファミリーの母親像から一転して、十の手に武器をもって獅子に乗り、牛の化け物マヒシャスラと戦う勇壮な姿はとくに親しまれたドゥルガ女神の図です。さらにこのドゥルガ女神の額からカーリとよばれる第三の(サティを入れれば第四の)神格が登場するのは、魔物ラクタビージャとの戦闘にさいしてでした。この魔物は苦行の報果として流した血からみずからが再生する恩恵をうけていたので、ドゥルガの戦いがきりなくみえたところで、その額から不気味なカーリが生まれます。ううむ。これは図像が欲しい。もし関心のある方は是非ともブルックリン美術館の画を。

https://www.brooklynmuseum.org/opencollection/print/object/46208

温和なパールヴァティ、精悍なドゥルガから生まれたとはとうてい思えない邪鬼のような真っ黒な女神が地面を這うようにして野牛の化け物からその血を吸っているさまです。この不気味な女神はもう一方で四本の腕をもつ、これよりもずっと人間形に近い神格としての表象をもって、とは云えだらりと舌を垂らし(血を吸う行為とむすびついた姿で)、いくつもの生首を腰から下げた恐ろしい姿に描かれます。そして魔物を倒した武勲の舞踏がそのあとにつづき、あわや世界を破壊するかと思われたときに、シヴァ神が身を投げ出してその狂乱の舞踏を受けとめる…この神話的展開の主要部分は『デーヴィ・マハートミャ』(「女神のすばらしさ」、8世紀頃の古譚のひとつ、さいわい邦訳がある)で読めるわけですが、ここで注目したいのは冒頭にあげた「シャクティ」の思想でした。

シヴァ派の「神妃思想」によれば、この戦闘的な女神たちは宇宙に遍満する力能(シャクティ)を集約したものであり、いわば女神はその相方の力を具現した存
在だというのです。つまりサティ・パールヴァティ・ドゥルガ・カーリの女神像は、苦行者シヴァの多面性を鏡のように照らした、柔和から戦闘にいたる力能そのものの具現形です。となると、ブラフマーの妃サラスヴァティ(弁天の原型)が学芸の女神であり、ヴィシュヌの妃ラクシュミー(吉祥天の原型)が幸運と美の女神
であることも、不思議ではありません。これらの女神たちは、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァらの特性を極点にまでおしすすめた物語原理をもってそのシャクティを女神として造型したものにほかならないからです。そうなると、シャクティの語が「性」に結びつく必然性もよく分かるし、にもかかわらず「性」に限定しないほうが自由であることの理由も分かってくるでしょう。うん。前回の女性の苦行をめぐる不全感は解消されないものの、現代日本でもふと女性に対していだく不気味さや恐れのような感情は、この生身のシャクティゆえかと考えれば…うん。納得がゆくかと。うん。たぶん。ぶつぶつ。

☆☆筆者のプロフィール☆☆
関 一敏
勤務先:NPO法人ウェルビーイング・ラボ

感じ考え組み立てる 第67回 人工知能との対話


簡単には答えの出ないテーマを考えるとき、メルマガの読者の皆さんはどのようにしておられるでしょうか。私の場合、自分で気長に考え続けるしかないと分かっていても、一人で考えているだけでは、すぐに行き詰まります。

必ずしも直接的にそのテーマに触れなくても、関連の話を周囲の人々とすることができれば、一歩先に進めます。しかしそういうチャンスは、ありそうでいて、実はそんなに多くありません。大学を退職してしまったので、授業を通して学生たちの意見を聞くことも、ままなりません。困り果てていた時に、救世主として現れてくれたのが最近話題になっているChatGPT、対話できるAI(人工知能)です。

ChatGPTは昨年末に登場して間もないのに、世界中で一億人を超える人々が使い始めているそうです。事務的な雑用はChatGPTで効率化できる、文書要約はChatGPTに任せる、ChatGPTに小説のプロットを書いてもらったなど、ネット上には毎日いろいろな使い方が出てきます。一方、私にとっては、答えが簡単に出ない問題を考えつづけるとき、ChatGPTが話し相手になってくれる、というのは何よりありがたいことだと思います。

ChatGPTは凄い!と言っても、別にこちらが思っても見ないことを言ってくれるからでもなく、難問にスマートな回答をしてくれるというわけでもありません。しかしChatGPTに何か質問して、返ってくる答えを見ていると、こちらとは少し視点が違い、その視点の違いが、なにより興味深く感じられます。そしてこちらも、「答えが出ない問題を、諦めないでもう少し考えてみよう」という気になります。

ChatGPTと、どのようなやり取りをしているか、先週に行った例につき、以下に英語の対話を和訳して示します。

・守山:「黒板に何かを書くことは、一種の視覚的な比喩(メタファー)といえますか?」

・ChatGPT: 「黒板に何かを書くことは、視覚的なコミュニケーションの一種と見なすことができますが、必ずしも視覚的な比喩であるとは限りません。視覚的なメタファーは、視覚的なイメージまたは要素を使用して何か他のものを表現または象徴するメタファーの一種です。たとえば、キャラクターの頭上にある電球の漫画
のイメージは、アイデアやインスピレーションの瞬間を表すためによく使用されます。対照的に、黒板に書くことは、情報やアイデアを伝えるために書かれた言語を使用する、より直接的なコミュニケーションの形態です。黒板に文字を書くという行為は視覚的に面白いかもしれませんが、それ自体がメタファーであるとは限りません。しかし、何か他のものを表す方法で行われる場合、黒板に書くという行為を視覚的な比喩として使用することは可能です.たとえば、教師は黒板に『自由』という言葉を書き、それを消去して、特定の歴史的文脈における自由の喪失を表す場合があります。この場合、黒板に書いたり消したりする行為は、伝えられている考えのメタファーと見ることができます。」

上記のChatGPTの答えには、考えさせられました。特に「教師が黒板に自由という言葉を書いてそれを消す」と言う箇所を読んだときは、AIにこのような説明が出来るのかと驚かされ、背すじがゾクゾクするような感じがしました。

囲碁や将棋の世界で、プロの棋士が、最近はAIを用いてトレーニングしていることは、新聞で読んでいましたが、こんなに早く、私自身の質問に答えてくれるAIに出会えるとは、思っていませんでした。とんでもない時代になったな、と感じる日々です。

*注;ChatGPTは以下のURLから、誰でも無料で使い始めることができます。
https://openai.com/blog/chatgpt

以下は対話の原文です。

Moriyama: Is writing something on black board a kind of visual metaphor?

ChatGPT: Writing something on a blackboard can be considered a form of visual communication, but it may not necessarily be a visual metaphor.
A visual metaphor is a type of metaphor in which a visual image or element is
used to represent or symbolize something else. For example, a cartoon image of a light bulb above a character's head is often used to represent an idea or a moment of inspiration. In contrast, writing on a blackboard is a more direct form of communication in which written language is used to convey information or ideas. While the act of writing on a blackboard may be visually interesting, it may not necessarily be a metaphor in and of itself.
However, it is possible to use the act of writing on a blackboard as a visual
metaphor if it is done in a way that represents something else. For example, a teacher might write the word "freedom" on a blackboard and then erase it to represent the loss of freedom in a particular historical context. In this case, the act of writing on the blackboard and erasing it could be seen as a
metaphor for the idea being conveyed.

☆☆筆者のプロフィール☆☆
守山正樹
勤務先:NPO法人ウェルビーイング・ラボ


ドクター・マコ At Home! (アット・ホーム) 第142回 丸刈り考

最近は、「丸刈りか長髪か」などという議論を見かけることもありませんが、数十年前までは、よく見かけたものでした。

川上も、一度だけ丸刈りにしたことがあります。(もちろん、もう少し髪の毛があった頃)それは、小学校卒業直前の今頃の時期でした。当時住んでいた、大牟田市の炭鉱住宅の中で、大牟田市・荒尾市の市境=即ち福岡県・熊本県の県境が、社宅内中央を走っていて、それを跨いで自宅が引っ越しするかどうかの瀬戸際だったからです。当時は、荒尾市では丸刈りと決められ、大牟田市では長髪だったのです。

今もあるのかどうか知りませんが、丸刈りの場合「3枚刈り」とか「2枚刈り」とか、切る深さの程度があり、まずはおそるおそる3枚刈りにしたものでした。心情的には、それまで一緒に遊んでいた友だちが行く荒尾市の中学に進学したかったのですが、その丸刈りだけが嫌でした。

しかし、結局、社宅内転居で大牟田市への引っ越しが行われ、大牟田市の中学へ進学しました。なので、それ以降は、丸刈りにすることはありませんでした。

なんで、この「丸刈り」のことを思い出したかと言うと、今年正月の全国高校サッカー選手権大会に、12年ぶりに出場した長崎県立の国見高校が、以前の丸刈りを止めて長髪だったからです。以前の指導者は、全国的にも有名な小嶺監督で、彼を慕って有望な選手が集まっていたものです。例えば日本代表になった大久保嘉人さん等は全国制覇を果たしました。

しかし、同じ教え子ではあるものの、現監督の木藤さんは、国見のシンボルだった丸刈りを廃止。伸ばした髪にもマナーやルールがあることを考えさせることから始めたのです。同じ理由で、それまで禁じて来た携帯電話の所持も認めました。SNSを活用し、選手たちとLINEでやり取りもしています。

ボールをしっかりと保持し、攻撃でも守備でもアグレッシブに展開する。新しい国見のサッカーが少しずつ実を結んできたそうです。ロングボール主体だった小嶺監督の戦い方とは一線を画していたのです。今年1月に小嶺さんは76歳で他界され、次第にその名を知る人も少なくなっていくでしょう。

当院に治療に来た、やはりこれも福岡県ではサッカー名門の東福岡高校の男子に尋ねると、東福岡高校サッカー部では「8軍」チームまであるそうです。そしてその頂点の1軍が対外試合に出るわけで、粒ぞろいの選手たちなのでしょう。そして、そこまでの技量の無い普通のサッカー少年たちはスタンドで応援することになるのです。しかも、おそらく監督が8軍の生徒たちの指導まではしないでしょうから、ただ在籍しているだけの高校時代なのかも知れません。そして、これは他の、野球部、バスケ、ラグビー等でも同じでしょうから、そういう高校生たちが全国的にも無数にいると思われます。

その昔、桑田・清原が活躍していた頃のPL学園は、当時のプロ野球阪神の二軍よりは強いと言われ、『PL学園の学校に入学するのは簡単だけど、その部活動のチームに入るには“入部テスト”があり、それをパスするのは大変!』とも伝えられました。

今春の甲子園選抜野球大会に、慶応高校チームメンバーとして、清原さんの息子が出るそうで、もうそんな時代になったのだな、と感慨深いものもあります。

川上は、そういうスポーツ競技では秀でてはいなかったので、勉強を頑張らざるを得ませんでしたが、その勉強にしたって、現在は色々な学習塾が手を替え品を替え頑張っている様です。どんな道を選ぶにしろ、やはり地道な努力・根性・少しの幸運などは要るわけで、現在から振り返ってみると、彼らスポーツ系統と、川上の人生とは同じようなものだったのかも知れません。川上も含めて、桑田・清原、そしてその2世たち・・・・どんな人生が待っているのでしょうかねえ?

☆☆筆者のプロフィール☆☆
川上 誠
勤務先:川上歯科医院

編集者後記


先日、熊本県の山鹿市で開催された「第2回たけのこ掘り選手権」に出場しました。大会の開催地である山鹿市は熊本県全体の1/3のたけのこの生産量を誇っています。しかし、、竹林の放置や後継者不足などに より生産量も年々減少しているため、山鹿のたけのこの価値を創出するPR手法として「スポーツ」と 「たけのこ掘り」を組み合わせた大会を企画したそうです。
参加者は、カゴとトウガ(たけのこ掘り用のクワ)を持って、スタート地点の鞠智城から竹林まで走り(1㎞程度)たけのこ掘りにチャレンジします。参加しての感想は、とにかくたけのこが見つけるのが難しい。足で探っていくのですが、どういう感触のところにあるのかさっぱり分からない。周りの人たちの「見つけた!」という声を聞くたびに、どんどん焦り、ますます見つからないという悪循環にはまります。結局、10cmほどの小さなたけのこを1本掘れただけでした。たけのこ掘りとか簡単となめて参加したことを大いに反省しました。来年参加するなら、たけのこの見つけるコツをしっかり予習し参加したいと思います。

今月もお読みいただきありがとうございました。

(いわい こずえ)
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ご意見、ご要望などお待ちしています。
編集:NPO法人ウェルビーイングいわい こずえ jimukyoku@well-being.or.jp
NPO法人ウェルビーイングホームページ http://www.well-being.or.jp/

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