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自己表現の究極地が「殺人」になってしまう世界

重いテーマだが、書きたい。

19人の障がい者の命が奪われた
相模原市の『やまゆり園』事件から3年が経った。



''障がい者は不要''、
''排除したほうがいい''という、
植松容疑者の考え方には

かつての優生思想や
ナチス思想と通じるものがある。


この事件が私たちにつきつけたもの



植松容疑者の思想は
『特別』なものだろうか?


やまゆり園の事件のあと、
匿名性の高いネット上には
さまざまな意見が見られた。

「そこまで(殺人)はしないけど、彼の思想は理解できる」といった声も多かったのは事実だ。


当然ながらどんな障がいを持っていようと、
その命が奪われることはゆるされない。



しかし、この事件をきっかけに
私たちは、心の奥底にある優生思想の扉を激しくノックされてしまったのかもしれない。



その扉をすんなり開ける人はいないとしても、
「開けるかどうか」を悩むきっかけになってしまった人はいるだろう。





ヒトラーを作ったのは
街角でのヘイトスピーチ





ユダヤ人を大量虐殺したヒトラーだが、
あの残虐なるホロコーストを
ヒトラーひとりでやったわけではない。


戦略家であった彼は、
街角で見かけたヘイトスピーチを
演説に練り込み、

当時のドイツ国民の深部にあった
生きづらさの矛先をユダヤ人に向け、
支持を得ることに成功した。



「敵」を明確化した圧倒的な演説により、
彼の思想に心酔した民衆が彼をヒトラーとして創造した。





これは、移民を敵視し国民の不安を代弁したように見せて政権をとったドナルド・トランプと似ている。



どの時代もヘイトスピーチは
熱狂的な信者をうみ

自己表現の手段として活用される




ヘイトスピーチは『内なる差別』を私たちに突きつけてくる。



常識では誰もが口に出すことを
ためらうような言葉を大声で叫び

「敵」を明確化することで
攻撃対象を分かりやすく提示し、

現実の生きづらさや不安の根幹は
「彼ら」にあるのだと氣づかせる。





ヘイトスピーチによって内なる差別を暴露された私たちは、''そうかもしれない''と賛同の手を上げやすくなる。


なぜなら、それは隠されていた本音だからだ。





上手くいかないことを
誰かのせいにしたい


きれいごとでは済まされない
不満と恐れ





だからといって、敵を作り殺してしまっていいわけがない。

そんなのは、分かっているはずだ。





実は、私の近しい親戚に
ネトウヨ化してしまった人がいる。

暇さえあれば、
YouTubeで右傾チャンネルを見ている。



口に出すのもはばかられるようなヘイトスピーチを機械的な発音で読み上げるテキスト動画だ。



事実かどうかも分からないような
○国ネタをまとめたテキストが、
スクロールされていく。



実は、
こういった動画は『内なる差別』を使った戦略で
手っ取り早く再生回数が伸びるので、

アルバイトを雇って量産させて
儲けるビジネスになっているらしい。






今、様々な現実の中で『内なる差別』が
フツフツと湧いてきている氣がする。


きれいごとでは済まされない
不満と恐れがある。



敵を作り戦略化し、
拡大した先の''思想''には信者がつく。


そして、その思想を自己表現とした時
究極地は「殺人」になってしまう。






そんな、現実は嫌だ。





だが、その思想を止める「手段」があれば教えてほしいのが現実である。



圧倒的体験と理解者





かなり難しい。

思想を止める、なんて
できっこないのかもしれない。



だけれど、
パンドラの箱のように最後には
「希望」があると願ってやまない。




差別やヘイトスピーチ、
不満や恐れは「孤独」からくることが多い。


つまり、理解者が近くにいない。




理解者というのは、
手放しに賛同する人ということではなく

話を聴いたり、ジャッジよりも恐れに寄り添ってくれる愛をもった人のことだ。




歪んだ思想の始まりは、
ジャッジされたことへの反発や自分を守ることから生まれる自己愛性であったりする。



私たちの社会は、
ジャッジに満ち溢れている。

だが、白黒では判断できない建前や本音の狭間で
一生懸命生きているのが現実ではないか?




だからこそ、

悲しみや絶望を知ってもなお、
圧倒的な愛に触れる体験をできると信じたい。





その圧倒的な愛の体験こそ、
「希望」となるのではないだろうか。



こんな私をサポートするなんて、そんな変態な人がいるのですかっ?!