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「強さ」とは

単刀直入に尋ねてみましょう。あなたは「強さ」とはなんだと思いますか。

人の数だけ考えがあると思うので、答えは人それぞれであり、無数に存在すると思います。しかし、その中でも私が生きてきた中で思う「強さ」について今回は述べていきたいと思います。

まず、なぜこのようなことを考えるに至ったのかという経緯について説明していきます。

私は、幼稚園教諭の免許を取得するために先日26歳にして幼稚園実習に行かせていただきました。2週間という先生方にとっても、子どもたちにとっても大変貴重な時間を実習の時間に割いていただき、何にも変えがたい貴重な体験をさせていただきましたし、子どもたちと関わることで私自身のQOLも上がったような感覚を覚えました。

その実習期間の中で子どもたちが、「強いということは力が強いということである」というようなニュアンスのことを言っていました。

もちろん、子どもたちから発せられた言葉なので、普段は何も気に留めなかったのだろうと思います。しかし、その時の私はなぜかそのことが頭から離れず、それ以降、ずっと考えてしまったのです。「”強さ”とはなんなのだろうか」と。

「強さ」とは「力強さ」なのでしょうか。肉体的に屈強な頑丈なことなのでしょうか。それでは「強さ」とは男性特有なものなのでしょうか。女性には適応される言葉ではないのでしょうか。何を以ってして、「強さ」と言われるのでしょうか。

私はこう思います。「強さ」とは「優しさ」であると。

「優しさ」と言っても解釈は様々で、例えば、相手を優先すること、いつも明るくいること、事実をきちんと伝えること、それに反して相手のことを考えて、伝える事実を選択したり、時には事実を隠して偽りの情報を伝えることなど、取り上げればたくさん出てくると思います。

今、挙げたことはどれも「優しさ」なのかもしれません。もちろん状況に応じて異なる場合もあるはずです。しかし、「優しさ」の本質を辿ると、おそらく「赦す」ということにたどり着くのではないかと思うわけです。

「赦す」とは認める、受け入れる、緩める、というような意味合いがあります。このことを加味すると、相手のしてきたことなどを即座的にないことにするわけではなく、まずは相手のその状態を自分自身の中で受け止め、認めて、そこから初めて、相手の行いに対して真摯に向き合うということであると思うわけです。

つまり、私が思う、「優しさ」とは「赦しを以って相手に接する」ということです。このことは決して自分自身を押し殺して相手の行いを全て受け入れていくというわけではありません。相手の行いを受け止め、認めて初めて、自分自身がどのように思ったのかということを考えるということです。感情任せに自分を思考を巡らせないということです。このことは精神が強くないと到底できないと思います。

さて、最後になりましたが、私が思う「強さ」とは屈強な肉体を持っているという意味での力強さではなく、屈強な精神をもち、思いやりの精神に溢れ、相手に対して赦しを以って接することができる、そんな内面を持っている人であると思います。

これを読んだあなたは「優しさ」とはどのようなことであると思うでしょうか。是非ともこの記事が考えるきっかけになってもらえると幸いです。

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